読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

マーブルワーズ

時間は繰り返さずただ流れるだけなんだよ

Clock Work

時計の針はぐるぐる回り、地球もぐるぐる回ります。

地球の周りでは月がぐるぐると周回軌道を描き、地球も太陽の周りを周回しています。

日は沈み、また昇る。死と再生のループ。悠久の時を無限に繰り返す、日常の光景です。

人の脳というのは、物事を観察し、関連性を発見しては、そこに意味を見出すという性質があります。

秒分時日週月年・・・。

私たちは、時間に区切りを設け、同じ単位の時間が繰り返すという概念を日常生活に取り入れており、これは、社会生活を営む上で非常に上手く機能しています。

上手く機能しすぎているため、私たちの世界を取り巻く、繰り返しやループの概念が「本当のこと」かのように思い込んでしまいがちですが、実際のところ、純然たる事実として、時間も世界もループなんかしていません。

138億年前の何処かで起こった大きな爆発以来、宇宙は膨張を続け、一時として同じ形をしていたことはありません。

まるでドミノ倒しのように次々と物理現象のおはじきを繰り返し、何らかの結末を迎える一過性の事象にすぎないわけです。

猛烈な勢いでお互いを弾き飛ばしながらカタチを変えていくビリヤードのような世界で、様々な影響の相互作用の結果、私たちはこの時代のこの世界に生を受けました。

そして、私たちはビリヤードの玉、あるいはドミノの一つとなって、この世界に影響を与える立場にあります。

純然たる物理現象であれば、ある事象が次の事象に与える影響と言うのは、決まりきっていて、そこに選択の余地は殆どありません。

しかし、人間の精神活動における「選択」と言うのは量子的なゆらぎの影響を受け、決定論的にすべてが決まっているわけではないことが保証されています。

つまり、儚げで微々たるものかもしれませんが、私たちには「選択する自由」が与えられているということです。

そして今の時代であれば、私たちの小さな行動は、インターネットなどを通じて互いに影響し合い、場合によっては、その後の世界を大きく世界を変える可能性を秘めています。

未来は誰にも予想できず、可能性はいくらでもありますが人生は一過性の出来事です。

その限られた時間の中で「どう生きるか?」ということは、「どのような影響を世界や未来に与えるか?」ということと同じことです。

私たちは、誰にも縛られず囚われず、運命の影響からも独立した「選択する自由」を有しています。

私たちの行動はどんな些細なものでも、世界に影響を及ぼし、その影響は未来永劫残り続けます。

「どんな影響をあたえるか」ということについても、本当に自由としか言いようが無いのですが、どうせならば、より良い影響を残すような生き方をすることで、大きな満足と幸福を得られます。

「何が良い影響を残す選択なのか」という問題には、自分で答えを出すしかありません。

善悪というのは、立場によって変わりますから、自分が信じる道を行くしかないのです。

信念を持って「良いこと」を追求していき、それが人々や世界に受け入れられた時、人生の意義というものが、より実感を伴って感じられるでしょう。

自己の欲求を満たすための選択の意味は薄く、大義を満たすための選択の意味は厚いということです。

セカイはそんなカタチをしているんだと思います。

この宇宙は光速の檻でできている

togetter.com

格闘ゲーマーが光速の遅さに気づいたようですが、この現代においては「光速」というのがあまりに遅すぎて、各所で問題が起きています。

まず、世界規模での話をすると、東京⇔ニューヨーク間が、直線で約1万キロメートルあります。

光速が約30万キロメートル/秒ですので、東京⇔ニューヨーク間は、1000分の30秒、30ミリ秒かかるという計算になり、ネットワークが一直線に引かれているとしても、最速で往復60ミリ秒の遅延があります。

60ミリ秒という遅延は、20年前であれば問題なかったと思いますが、現在のコンピュータ間のやり取りでは、致命傷となりかねません。

金融取引

特に顕在化し易いのが、金融取引で、証券取引や外国為替市場では、とっくの昔にミリ秒単位での攻防を繰り広げています(6年前の記事です)。

www.j-cast.com

金融取引では、ネットワーク遅延を少なくすることのメリットが非常に大きく、ゴールドマン・サックスは、1ミリ秒遅延を少なくすることで年間1億ドルの利益がでるそうです(出典を探したのですが出てこなかったので勘違いかも)。

4.5ミリ秒のために電波塔を立てても十分にペイするわけです(この辺は常に競争なのでライバルも電波塔を立てると利益が薄くなっていくわけですが)。

4.5ミリ秒を争って電波塔を建てる投資家達

世界同時とは

また、「世界同時」の定義も非常に難解です。

相対性理論による時空の歪みもありますので、最終的には哲学的な領域に入りそうな気がしますが、グーグルは、世界中のデータセンターに原子時計とGPSを設置することで、少なくともある時間軸の中で「世界同時」を実現することにしたようです。

wired.jp

これも5年前の記事なんですけど。^^;

糞みたいに遅延するネットワークを利用した時間整合(NTPなど)では、あっちもこっちもドッタンバッタン大騒ぎで何が正しい時間なのかわからなくなるということです。

小さな世界

こんどは、小さな世界でのお話です。

私達が使っているCPUは、だいたい1GHzから4GHzで動いています。

1GHzというのは、1秒間に10億回クロックが発生するということです。

1クロックあたりの時間は10億分の1になりますので、これを光速に当てはめると約30センチメートル程度になります。4GHzだと7.5センチメートルですね。

桜の花びらが、秒速5センチメートルで落ちるらしいので、その約20億倍ぐらいのスピードですね。^^;

CPUというのは、2cm角程度の大きさなので、直線距離的には条件を満たしていますが、回路が入り組んでいるため、どの程度の道のり距離を進んでいるかはよくわかりません。

ただ、いろんな条件が重なって入ると思いますが、CPUの動作速度はここ10年ほど4GHzの域を出ていないという事の一因にはなっているんじゃないかと思います。

マザーボードの動作周波数は、800MHzぐらいですが、これも30cm角の板に配線すると考えると、これ以上の周波数は厳しそうです。

宇宙の知的生命体

この宇宙には、人類以外の知的生命体が無数に居ると思いますが、彼らとの交信についても、「光速の檻」が狭すぎて実現は絶望的です。

神様が、この宇宙をデザインしたとすると、決定的なところに致命的な枷をハメたわけです。

光速が遅すぎるため、コンピュータの進化もネットワークを利用したコミュニケーションも地球外生命との交信も一網打尽にやられているわけです。

「天網恢恢疎にして漏らさず」とは良く言ったものです。

web

パルプ・フィクションについて、一言だけ言いたい

www.hulu.jp

一番好きな映画は?と聞かれたら「パルプ・フィクション」と答えるようにしています。

Huluで公開されていたので、久しぶりに観ました。

楽しかった。

この映画は、1994年公開みたいなんで今から23年前(!?)の映画ですが、その輝きは全く衰えていないことを確認できました。

この映画の良い所を説明するのは難しいのですが、「安っぽいギャング・フィクション」をテーマとした映画で、本編が幾つかのエピソードに別れていて、それらが絶妙にフィードバックしあいながら全体のストーリーを成すという構成が楽しい映画です。

それぞれのエピソードは、単純に登場人物が快活に「いけないFワード」をふんだんに盛り込みながらおしゃべりするだけの(?)他愛ない話ですが、「実はあそことここが繋がって」とか「ここでこいつがTシャツを着ているのはこのシーンの続きだから」とか、時系列もバラバラなパズルになっていて、何回観ても新しい発見があるような、奥深さがあります。

細かい伏線を追いかけているうちに、一つ一つのシーンのディティールが綿密に組み立てられていることを知り、感動を覚えます。

これこそQ・タランティーノの最高傑作といえるでしょう。

んで、今回別に映画の感想を述べたいわけではなくて、この映画で一点だけ、勘違いされやすい点を指摘しておきたいのです。

それは、このシーン。

f:id:qtamaki:20170406070248j:plain

ギャングのビンセントとジュールスが、ボスのマーセルスを裏切った若者のアジトに押し入るシーンです。

ここでジュールスがこれから仕事で「殺す」相手の食べているハンバーガーを「一口くれ」と言いながらモシャモシャとあらかた食べてしまい、その上で「喉の奥のハンバーガーを流し込んでも?」と言ってコレまた全部飲んでしまうジュース、時折これを「コーラ」だと勘違いしている人が居るみたいなんですが、

「スプライト」

ですから!

このシーンは最高の映画の中でも最高のシーンの一つですが、このシーンを見て以来、僕はハンバーガーのお供は「スプライト」と決めています。

ハンバーガーを口いっぱいに頬張り、喉の奥に詰まったものを流し込むスプライトは最高としか言いようがありません。

一時期、マックのメニューからスプライトが消え、不遇の時を過ごしたのですが、最近復活したので嬉しいです。

観てない人は、この映画を見ればスプライトを観たくなるはずです。

さあ、みんなもパルプ・フィクションを観てスプライトを飲もう!

コカ・コーラ スプライト 470mlPET×24本

コカ・コーラ スプライト 470mlPET×24本

パルプ・フィクション [Blu-ray]

パルプ・フィクション [Blu-ray]

あなたの代わりはいくらもいないよ

anond.hatelabo.jp

「俺(おまえ・君・あなた)が居なくなっても代わりはいくらでもいるよ。会社は回っていくんだよ」

この言説が、とても嫌いです。

そりゃ、世の中には「誰がやっても同じ」仕事が山ほどありますし、「同じ結果が出る」という均一性に価値のある仕事も一杯あります。

仕事がその人にしかできないように属してしまう「属人性」というのは、企業としてみれば、なるべく避けたいリスクですので、「いくらでもスペアが居る」状態を保っておくことは、理想のように思えます。

でも、これらは全部嘘です。

こんな考え方も、こんなことを言う人も総じて間違っています。

時間の無駄。

僕の目の前から消え去って、悔い改め懺悔した人だけ戻ってきてください。

まず、「属人性を排する」という行為ですが、直感的でわかりやすく甘美な響きを持った言葉で、僕も社会生活上、何度となく聞かされてきましたし、その重要性も理解していますし、必要な考え方だと思っています。

でも、それが全てではないです。

それが半分でもないです。

ほんのちょっとです。

隠し味にスイカにかける塩のようなものです。

主となるスイカは、「属人的な仕事」です。

だから、達観して「俺が死んでも代わりはいるよ」なんて世捨て人を気取るのは止めましょう。はっきりいってカッコ悪いですよ?それ。

あなたが居なければ会社は回らないのです。

少なくとも、「あなたが居ない別のカタチをした会社」として回っていくことになります。

回り方も、辿り着く先も別です。

そんなことを考えている暇があったら、ちゃっちゃとあなたにしか出来ない仕事をやって、会社も世界も変えてしまいましょう。

その方が、遥かに有意義な人生を送れるはずです。

属人性を排することが愚かしい理由

今回、文体を見て分かる通り、僕は結構この件に関して、感情的です。

なぜならば、このくだらない考え方が、日本の労働生産性を先進国最低と言われるほどに貶め、労働環境を最悪にし、労働意識や労働意欲を徹底的に破壊し尽くす悪魔の元凶だと思っているからです。

人の多様性というのは、極めてバラエティに富んでおり、それぞれが発揮できる能力というものにはバラツキがあります。

決して、画一的な容器に押し込んで、「必要なものを必要なだけ」みたいなキャッチコピーで、好きなときに中身を取り出せれば良いというような代物ではないのです。

そのため、一見効率的に思えるこの考え方は、短略的で近視眼的な「愚者の理論」の典型です。

効率のために属人性を排そうとしているうちに、属人性を排してもできる仕事を探すようになる悪魔の媚薬です。

能力や技能の有る人材が抜けて事業継続できなくなることを恐れて、無能を集めると言うのは、本末転倒以外の何物でもないです。

更にいうと、無能にもできる仕事であることを証明するために、能力のある人間にも無能を強要するようであれば、それこそ本末転倒どころか、ただの自殺です。

会社の運営がテレビゲームだったら

Gamer: Space Invaders

例えば、ある会社の仕事がゲームをプレイすることだったとします。

ゲームの腕前には、上手い下手があるので、「誰でもクリアできるように」攻略本を書きます。

そして、その会社の社員は入社したら攻略本を渡され、「この本の通りにプレイしてね」とゲームをやらされるとします。

社員たちは「こんな仕事誰でも出来る」と達観して黙々とゲームをやり続けるのです。

会社としては、すべての従業員が画一的な仕事をしていて代わりはいくらでもいる状態で、従業員の価値は労働時間に比例するため「価値=時間」という定量的な判断ができて合理的、と良い事ずくめで理想的に見えます。

しかし、このストーリーには問題があります。

「ゲームを上手くプレイする」と言うのは、直接的な仕事ですが、「『ゲームを上手くプレイする』ことができるように攻略本を書く」といのは、一次元高次な間接的な仕事、「メタワーク」です。

メタワークは、直接的な仕事より、仕事としての難易度は高いため、ゲームが上手い人でも、上手く攻略本を書けるとは限りません。

そして、上手くゲームをプレイ出来ない人は、攻略本を書くところまでたどり着けない*1ので、必然的に「うまく攻略本を書けるゲーム」と言うのは、少なくなる傾向にあります。

このため、「属人性を排する」ことを主体にしてしますと、「プレイできるゲームが少なくなる」という作用が発生します。

ゲームを上手くプレイすることで、価値を提供していた会社が「誰でも出来るゲームを誰でも出来る攻略本を元にプレイする」状態に陥る危険性があります。

つまり、必然的に「確保できる人材に対しての仕事の質が一段回低くなる」というジレンマがあるのです。

社会活動の本来の目的は、価値を提供することです。

「継続的に高品質の価値を提供するために、プレイヤーの交代というリスクを避けたい」と言うのが、本来の理論だったはずですが、プレイヤー交代のリスクを避けるために、交代しても影響ない程度の仕事しかせず、結果低い価値の提供しか出来ないという理論にすり替わってしまっては、本末転倒以外の何物でもないでしょう。

この状態では、社員たちは、「代わりがいくらでもいる」わけではなく「代わりがいくらでもいる仕事しかしていない」という状態になるわけです。

バカバカしい話です。

そして、このバカバカしい哲学に思考停止した管理者や経営陣は、それが正しいという理論武装のために「属人性を排する」というお題目を唱えます。

その結果「代わりはいくらでもいる」と自分たちの価値を過少に卑下して受け止める、次の世代の妄信的な管理者が生まれるという、負のスパイラルが渦巻いていくわけです。

仕事は非効率であることが求められ、労働の価値を測る物差しは、「長時間の残業のみ」という理論がまかり通り、工夫して生産性を高め短い時間で成果を出すことを「他のプレイヤーがプレイできないようなゲームは止めろ」というマイナスの評価を下すような会社が出来上がるというわけです。

答えは簡単「待遇を良くする」こと

会社を運営していくという社会活動の主目的は「価値の創造」です。

創造された価値には対価が発生し、継続的に会社の運営が可能となるというサイクルこそが、資本主義経済の本質です。

この「価値の想像」にフォーカスするのであれば、属人性の問題はあくまでオマケです。

優秀なプレイヤーを失う恐怖を少しでも減じたいのであれば、従業員の待遇を改善すべきです。

シリコンバレーでは、最高の価値を提供するために、世界中から最高の人材を集めることに躍起です。

最高の報酬を用意し、掃除洗濯食事や居心地のよいオフィス、その他あらゆる手段を講じてライバルよりも多くの人材を奪い取る事が勝利の条件だと信じられているからです。

もちろん、最高の人材に最高の仕事と報酬が与えられる一方、そこからあぶれた人達の待遇は決して良いものとは言えないでしょう*2

しかし、それを怖れて画一性を求めるような臆病で愚鈍な社会にはイノベーションは生まれませんし、世界がフラット化する中で、最先端の価値を創造できない国に未来はありません。

本当の資本主義は、自由と責任と競争の世界です。

単に労働環境への意識の違いというだけではなく、文化の根っこの部分から全く違うわけです。

qtamaki.hatenablog.com

数日前の記事の焼き直しになってしまいますが(同じ人間が同じ頭で考えているので仕方ない)、画一教育を施した子供たちを新卒一括採用して、人格破壊を行って会社色に染め上げる、日本の社会システムが根本的な所で行き詰まっているのです。

競争を避けて全員が不幸になる「優しい世界」からは、卒業する覚悟が必要です*3

だから、冒頭の言説を許してはいけないのです。

日本にはびこる画一性の罠に対して、毅然とした態度で望む覚悟が必要なのです。

僕は、日本人にはそれができると信じています。

*1:ゲームが下手でも攻略本を書くのが上手い人が理屈上は存在しますが、顕在化する機会が少ないので発見されるのは稀です

*2:それでも今の本邦よりは良いと思いますが

*3:アメリカほど過激な奴は馴染まないので日本なりのアレンジは必要でしょうが

映画 立川談志を観た(映画感想文)

思いの外良かった。

いや、とても良かった。

芝浜が泣けた。

僕はあまり落語には詳しくない。

昔、テレビを良く観ていた頃は、たまに深夜に落語をやっていることがあったので、やっていればなんとなくぼーっと観ていた。

「名人の落語は、目の前からすーっと噺家が消えてしまい、登場人物の世界しか見えなくなる。そして、話しがストンと落ちて、目の前に噺家があらわれる。これが落語の醍醐味だ」

というような言説を聞いたことがある。

僕はこの話が大好きで、落語を見るときは、目の前からこの噺家が消えるかどうか楽しみに見ている。

落語の良いところは、「がははは」と爆笑するようなことは滅多になくて、目の前に展開する寸劇のリズムやテンポや、ちょいちょい挟まるユーモアを楽しみながら、リラックスした気分で見られるところだ。

心の温度をぬるくポカポカ程度にしてくれる。

熱すぎず、寒すぎず。

だから僕は落語が好きなのだと思う。

談志の落語は、それを語るほど詳しくはないんだけど、印象としては「面白い」と思っている。

他の人の落語(といえるほど詳しくないが)は、上記のようなポカポカを楽しむために観る感じなのだが、談志の落語は「わははは」と笑ってしまう。

くだらない話、毒舌、ブラックユーモア、メタや楽屋ネタ、なんでもやってしまう。

リズムやテンポ、テンションがちょっと違うのだ。

他より体感温度が1℃高い。

その領域に踏み込んでくるのは、談志だけだったと思う。

だから、談志の落語は目の前から消えない。談志は談志なのだ。

それでも物語に引き込まれるし、談志の世界に否応なしに引き込まれてしまう。

不思議な魅力を持った特別な存在。

それが談志なんだと思う。

談志がテレビで落語をやるのは稀だったから、観られた時にはテンションが上がった。

この映画は、そんなちょっと浮ついたテンションを思い出させてくれるものだった。

亡くなってしまったのは、非常に惜しいことだけど、こんな映画が観られてよかった。

また、どこかで落語を観る機会があれば良いなと思った。

落語心中

んで、映画を見るきっかけとなったのが、この昭和元禄落語心中。

おすすめされて観てみたんだけど、面白かった。

話はよく練れてるし、戦後や昭和の猥雑な雰囲気が好きなので、こういう舞台の話はワクワクする。

声優で言うと、石田彰と山寺宏一は凄いなと思った。劇中劇で、落語をやるなんて、相当練習が必要だろうし、アニメだから身振り手振りはアニメーターが作るわけで、それに合わせて喋りだけで落語をやるなんて狂気の沙汰としか思えない。

そして、二人は普段から落語の練習してるんじゃないか?というぐらいに上手かった。

それを観るだけでもこのアニメを観る価値があると思う。

僕は、少女漫画が極端に苦手なので、恋愛要素とか落語を神格化してしまうところとか、ちょっとチクッとする部分もあるんだけれど、それを含めても傑作だと思う。

そこが苦手でなければ大傑作だろう。

全部アマゾンプライムにあるので、加入している人なら、観て損はないと思う。

小鼻の黒ずみ、角栓、いちご鼻はヒルドイドで劇的に改善する

タイトルで言いたいことを言い切ったので、本文はオマケです。

僕は、40代男性なので、スキンケアに興味はまったくないのですが、30代後半ぐらいになると小鼻の黒ずみが酷くなります。

なんか、毛穴が開いてイチゴのようにプツプツした感じになって、アップで見ると結構グロい感じになるので、「年だからしょうがないのかも知れないけど、なんか嫌だなー」と思っていました。

きっかけは、子供が生まれて、小児科医に行くと大量にヒルドイドを処方されます(ヒルドイドと言うのは、小児科で処方されるピンク色の保湿クリームです。市販薬より効果が高いと言われています)。

子供の肌は繊細なので保湿が命とばかりに全身に塗りたくっていたのですが、冬場、肌がカサカサする時などに余った分を自分にも塗っていました。

するとどうでしょう(ナレーション)。

あんなに凸凹していた小鼻の毛穴が「キュッ」と引き締まり、結果的に角栓も目立たなくなっていました。

それまで、「角栓」にばかり気を取られ、「これをどう除去するか」ということばかり考えていました。

そのため、こんなので角栓を取ったり、小鼻をギュッと押してニュルニュルさせたりしていました。

メンズビオレ 毛穴すっきりパック 白色タイプ 10枚入

メンズビオレ 毛穴すっきりパック 白色タイプ 10枚入

しかし、ポイントが違ったのです。

できてしまった角栓を取り除くのではなく、角栓ができにくい小鼻を作れば良かったのです。

予防医療の重要性を感じました。

「小鼻を保湿→毛穴が締まる→角栓が溜らない」という図式です。

解ってみれば簡単なことですが、盲点となっていると気づかないものですね。

いま起こっているのは日本型社会主義の崩壊だ

日本型社会主義 - Wikipedia

ソニー、サンヨー、シャープ、松下、東芝、

ブラック企業、過労、鬱、先進国で最も低い生産性、

少子高齢化、待機児童、地方創生、一億総活躍時代、

年金問題、財政問題、憲法改正。

日本は、「世界で最も成功した社会主義国」と言われることがあります(ありました)。

分厚い社会保障を好み、集団の中で庇護されることを好み、生産性よりも画一性を好み、自由は誰かがくれるもの、もしくは、生来の権利として誰もが平等に生まれ持つものと信じて疑わず、隣の振り見て我が振り直し、同調圧力の中で、自由恋愛、職業選択の自由、言論の自由、移動の自由、自由という名のニンジンに満足して、幸せとは全体の中に個を埋没させることと自分たちに言い聞かせてきた国民によって、素晴らしくうまく運営されてきた社会システムです。

戦70年に渡り、抜群に良好なパフォーマンスを発揮し、諸外国を尻目に奇跡の経済成長と様々なイノベーションを巻き起こしてきた謎のイデオロギーは、その役目を終えようとしています。

どんな社会システムでも、いつかは崩壊します。

日本では、見た目上、自由主義で資本主義でありながら、社会と国民の性向によって、実質的に社会主義的な機能を持つ国家運営がなされてきました。

その中心には、会社中心の生活スタイルや価値観を生み出す、新卒採用制度や年功序列制度、正社員の雇用保護政策があります。

そしてイノベーションや責任よりも画一性や協調性、忍耐や努力を強いる洗脳行為は、学校教育から始まり、新卒研修による大学生活の否定、定年退職に至るまで綿密に組み込まれており、社会に深く根ざしています。

この根本的な、日本を日本たらしめている日本的な社会の仕組みが、世界情勢や経済のグローバル化、機械電気電子産業のコモディティ化などの変化に伴い、根本的に通用しなくなってきていることが、現在日本が抱えている様々な社会問題の根底にあります。

数年前に、SNSの普及によってイスラム諸国に自由の革命が連鎖した「アラブの春」という現象がありました。(結果の善し悪しは別として)それと同じことが日本にも起こっているのです。

様々な、メディアや政府や企業団体によって社会を覆っていた嘘に人々が気づき始めた事により、前出の社会制度への忠誠心や求心力が急速に失われていることを感じます。

みんな、現在の社会制度が間違っているのじゃないか?と思い始めているのです。

間違っているかどうかは一概にはいえませんが、問題がないかというと、様々な問題があるわけです。

この問題を解決するためには、小手先の対策では恐らく無理でしょう。なぜならば、現在の問題が日本の社会制度と国民一人一人の意思が集合した国体の問題であるからです。

それに、現在の社会システムだって、完全に悪いわけではありません。

完全に自由な制度であれば、「生産しなければ解雇」であるべきです。結果に対する責任こそが真の自由裏付けとしては不可欠なものです。

日本では、「結果が出なくても残業していれば許される」というルールで運用されてきました。これは、時間を売り渡す代わりに居場所を得る行為です。

残業を減らし、労働環境を改善するためには、会社の業績が良好であることが大前提であり、「結果を出して帰る」という自由と責任をセットで行使する勇気と実力が必要です。

それを良しとせず、落ちこぼれもエースも同等に扱うのであれば、残業によって生産性の低さをカバーし、カバーしきれなくても「終電までいてもできないならしょうがない」という最低な理由の許しを得るという社会システムに傾けるより他になく、それは、現在の日本の現状です。

ソビエト連邦が崩壊したのは、労働者の生産性が著しく低かったことも大きな要因だと思いますが、今の日本でも同様の現象が起こっています。

皆を(生産性に対してではなく時間的に)平等に扱うシステムは、どうやったって生産性の低下とモラルの低下を引き起こします。

今のぬるま湯の労働環境を手放さない限り、社会制度を変革することは不可能です。

あまりに多くの人が、あまりに長い期間、ぬるま湯に浸りきってしまいました。

このまま干からびて死を迎えるか、国家崩壊レベルの大きなショックがなければ、制度改革というのも難しいでしょうが、冷蔵庫の中の野菜が萎びていくのを座して観るより他にないような無力感を感じます。