セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

欲と義によるブッダの教えの再定義

欲とは、自己のために行う行為。

義とは、誰かのために行う行為。

自分以外の誰かに対しての奉仕、貢献、献身によって、欲は義に昇華する。

欲によって得られる満足は、低次の満足で、すぐに慣れてしまうため、十分に心を満たすことができない。そのため、欲を満たすことを求めると、欲に溺れることになりやすい。

義によって得られる満足は、高次の欲求を満たしており、より深い満足、充足、幸福を得ることができる。義を求めることは、利他的な行動を伴い、私心を無くして心の安寧を生む。

義によって得られる満足を便宜上、「悦」と呼ぶことにする。

悦よる、正のフィードバックは、より大きな義を求める力となる。

多くの人々に貢献することによって、義は、どんどん大きくなり、いつしか大義となる。

より深い悦は、より大きな義によってのみ得られるからだ。

大義に身を置くことにより、相対的に、自己の欲求は小さいものとなっていく。

最終的には、自我は大義と同化し、私心は消え去り、義のために働くことに自らの存在意義を見出すことになる。

いつしか、迷いや欲は姿を隠し、静寂こそが心を支配する状態、涅槃をもたらす。

この状態を「悟り」と呼ぶ。

大義に引きこまれ、精力的な活動によって悦を得ながら、私心を無くし、この世界という怒涛の大河の中で静寂を得る。

智慧はフル回転し休むことなく考えながら、心は涅槃という状態に至り、それこそが悟りとなる。

義を遂行するためには、積極的に人々に働きかけなければならない。世界をガラッと変えてしまうような力が必要となる。

それは、ブッダの説く、執着を離れ、静かに瞑想することで悟りに至るような教えと矛盾するのではないか。

そうではない。

これは、ブッダの教えを再定義しているに過ぎない。

ブッダ自身、執着を離れ無我の境地に至りながら、大勢の信徒や弟子を抱え、世界に多大なる影響をあたえることで、大義をなした。

執着を離れることと、大義をなすことには、大きな矛盾があるように感じられる。

しかし、実際には、大義と一体になることと、執着を離れることとは、同じ真理の裏と表に過ぎない。

義によって悟りに至るという事実は、人生をゲームに例えるのであれば、その攻略法にあたる。

「攻略本さえ見れば、誰もがゲームをクリアできる」というわけにいかないのと同じで、実際にその境地にたどり着くためには、修行や練習や挑戦や失敗や成功など、色々な行動と経験が必要になる。

何にせよ、実践するしかない。

能動的で精力的な活動によってのみ、その境地にたどり着けるのだから。