悩み多きお年頃
今から20年ぐらい前のことです。
僕が、高校生ぐらいのときです。思春期にありがちな問題として、親との衝突があり、悶々と悩む日々が続いていました。
その頃僕は、家族のことや進路のことなどで非常に追い詰められていて、色々なことを考えていたのですが、いくら考えても答えにたどり着けず、眠れずに朝を迎えるというような毎日を過ごしていました。
恐らく、寝ることも忘れて、ベッドの中で身体も動かさず、ひたすら「考える」事に集中している。という時間を何十時間も過ごしていたのだと思います。
だいたい、出口のない思索というのは、ぐるぐると同じところを繰り返し巡ってしまうもので、来る日も来る日も同じことを考え、「あ、また同じところを巡って同じことを考えている」と気づいてうんざりする。という袋小路に完全にはまっていました。
心の中に迷いの森が出現して、ぐるぐると同じところを巡らされる呪いを掛けられたという感じでしょうか。
とにかくつらい状態だった事を覚えています。
閃きと共に訪れる開放感
そんなある日、ふと、ブレイクスルーとなるような、非常にシンプルで単純な答えが頭に浮かんだのです。
悩んでいたことが馬鹿らしくなるような、現況をガラリと変えてしまう、とびきりの答えです。
僕は、嬉しさのあまり、小躍りするほどに興奮していました。
今まで体験したことのない、とても大きなカタルシスでした。
数日間、数週間、数ヶ月・・・正確には忘れましたが、とても長い間さまよっていたトンネルから一気に抜け出し、とても明るくて広い場所に躍り出たのです。
得も言われぬ開放感です。
「スカッとする」とはまさにこの事か!と思いました。
と、その瞬間、不思議な事が起こりました、比喩的な表現ではなく、本当に部屋が急に明るくなり、身体が大きくなり、世界が小さくなったのです。
もちろん実際には、部屋が明るくなったり、世界が小さくなったりはしていないのですが、「自分の実体が自分の殻を突き破って大きく膨らんだ」様な感覚です。
それと同時に、大量の多幸感と万能感が心の底からとめどなく溢れ出して、まるで神にでもなったような気分になりました。
それまでの自分の体という暗い檻に閉じ込められていた魂が完全に解放され、神のような力を授かったのです(という気分になったということです)。
「凄いぞ!今ならなんでもできそうだ!」と、本気で思いました。
漫画で言うならセルやDIOが「完全体」になった瞬間のような高揚感とでも申しましょうか。
とにかくなんでも出来て、何にでもなれるという自信の塊となっていたわけです。
それの正体
一方、冷静に状況を見ている自分もいて、心の隅っこでは別の考えを巡らせていました。
「これは一体何なんだろう?」
と。
当時、マラソンランナーが、苦しみの限界を超えると非常に大きな幸福を感じて苦しみを忘れてしまう「ランナーズハイ」という現象があることを知っていました。
それと、「銃夢」を読んでいたので、それが「ドーパミン」や「エンドルフィン」などの脳内物質による感情のエフェクトだと言うことも知っていました。
そのため、この現象は「悶々と悩み続ける苦しみに対して、シンプルな解答が得られた事による開放感をトリガーにして、脳内物質がドパドパ分泌されたのだろう」という結論になりました。
ランナーが、苦しみの末ハイになることを「ランナーズハイ」というのであれば、思考による苦しみからハイになるのであれば「フィロソフィアーズ・ハイ」であろうと思い、そう名付けました。
つまり、「哲学者のハイ」です*1。
そんなことを20年以上前に体験し、名前をつけたのですが、僕以外の誰かにこの事を話すのは、今日が初めてになります。
別に内緒にしていたわけではないのですが、言語化することが難しかったのと、特に話す機会にも恵まれなかったというだけのことです。
だからといって、自説に自信がないわけでもなく、20年たった今でも、あれは「哲学者のハイ」であったと確信しています。
そして、ここからはちょっと踏み込んだ話をします。
天啓・悟りの正体
ちなみに「哲学者のハイ」と名付けたその現象は、残念ながらその後僕の身には一度も起こっていません。
その後、そこまで悩むような壁にぶつかっていないということもありますし、そうそう頻繁に発生することでは無いみたいです。
このことを他の人と語らったことがないため、どの程度の頻度で、何人に1人の割合で発生するのかも不明なのですが*2、ネット上でもあまり見かけたことが無いので、少数派なのではないかと思っています。
とはいえ、ゼロではないはずです。
何故ならば、僕が体験したことは、本なんかで読む「天啓」や「悟り」といった体験記と酷似しているからです。
そしてそれは同時に、「天啓」や「悟り」といった現象が「超常現象ではない」ということを指すのですが。
「天啓」や「悟り」を体験する直前、その人は大きな悩みを抱えています。
そして、オーソドックスなパターンとしては、急に名案や答えがひらめき、その答えをまるで「神が遣わした」かのように感じるということです。
これは、僕の体験と一致しているように見えます。
僕が最近興味を持って調べている初期仏教に関しても、このパターンに類する話しが見受けられます。
そもそも、釈迦の悟りのシーンが、このテンプレに当てはまりそうです。
釈迦は、限界を超え、ギリギリまで死に近づくような苦行を行った後、苦行では悟りを開けないと思い、スジャータから乳粥をもらい、その後悟りを開きました。
時系列が微妙にぼやけていますが、「苦行 → 瞑想」というパラダイムチェンジの瞬間に悟りを開いています。
苦しいだけでは、脳内物質の大放出は起こりにくく、苦から楽への転換時に訪れるのではないかと推測しています。
他にも、アーナンダさんの場合、ブッダに25年間師事しても悟りを得ることが出来ず、ついにはブッダの死後、初めて行われる第一結集に出ることもかなわないという瀬戸際、徹夜の瞑想も虚しく悟りを得ることができずに朝を迎え、諦めて横になろうとした瞬間に悟りを得ます。
これなんかは、「極限の圧迫状態からの解放」という条件がバッチリ当てはまります。
シーハー尼の場合は、7年間の修業の甲斐もなく悟りを開けない事に絶望し、自殺を試みます。そして、木の枝に縄をかけた瞬間に悟りを得ます。
これなんかも、死を望むほどの極限状態があったことと、死による解放への期待からプレッシャーが抜けた瞬間の悟りといえそうです。
もちろん、全ての悟りや天啓が「哲学者のハイ」によるものとは言えませんし、彼らの悟りに関してもそうであるとは断定できません。
また、何かのはずみで脳内物質が大量に出たからといって、悟りの際に得ることが出来た智識や気づきの価値が些かでも損なわれるものでありません。
ただ、そういうことが僕の身に起こって、文献などにも似たような状況が記されている。ということは事実なのです。
ここから先を詮索しても徒労でしょうし、僕自身は、少なくとも同じ体験をした仲間がいると思えるだけで満足しています(という割にフログに書いているわけですが)。
ということで「哲学者のハイ」というお話しでした。