セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

二元論やカテゴライズではなく正規分布で考えてみる

世の中には、善か悪か、右か左か、きのこかたけのこか、など、物事を2つに分けたり、幾つかの型に分類して考えるという事が日常的に行われています。

時には、各陣営に別れて侃々諤々の議論が展開されるわけですが、各個人の状況を見てみると、それぞれ考えていることや立場は千差万別であり、簡単にカテゴライズできるものではありません。

そして、このように個別には離散的(バラバラ)であるが、全体としては群れをなすような値の集合を見た時に、それが正規分布することが多いことが経験上知られています。

正規分布とは下のグラフのような散らばりを見せます。

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大概の値は、中央値近辺に集まり、両端に近づくにつれ急激に個体数が減っていきます。

典型的な例で行くと、テストの点数や身長なんかが標準偏差すると考えられています。

それ以外にも、睡眠時間や年収、足の速さや読書のスピード、色々なものが正規分布するものと思われますが、このように数値で測れるものばかりではなく、「眠さ」や「だるさ」、「生きづらさ」「リア充」「甘いものが好き」「第六感」などの数値としては表しにくいものも、同様だと思っています。

立場をカテゴライズすると硬直する

さて、ここからが本題ですが、ネット上などでは、よく議論が白熱したり炎上したりする光景を見かけます。

その際に、無意識のうちに、いずれかの立場に立って物事を考えると思うのですが(少なくとも自分はそうです)、ちょっと視点を変えて、それぞれの立場が正規分布している一端だと考えるようにしています。

そして「自分はそのグラフのどの辺にいるだろうか?」と考えることで、極端な意見に走ったり、一端の陣営を応援するあまり矛盾を抱え込むようなことが少なくなるような気がします。

図にするとこんな感じで、世界を陣営に分けて考えると、仮想敵を作りやすく、議論が先鋭化し易くなる気がします。

正規分布していると仮定することで、「大概の人はどっちつかずなんだろう」と思えることや、「目に見えている意見は、目立つ所にある分、両極端な意見であることが多い」と割り切ることができるように思います。

一人ひとりの意見はあくまで離散的である

最後に、世界をカテゴライズしたり数値にプロットして考えることは、物事をシンプルに理解するために大変有用なことだと思います。

しかし、実際の世界では、あくまでバラバラの意見を持つ人達の集合であるということも、忘れてはいけないのだと思います。

また、数値にプロットするためには「とある視点で一部の値を切り出す」行為である点にも注意が必要です。

「足が速い人は、たけのこの里が好き」のような別軸にある値を比較することは出来ないということは言うまでもありません。

「無数の評価軸を持った無数の点が集まったもの」が人間社会を構成している以上、単純な数直線で推し量るというのは限界があります。

とは言え、二元論やカテゴライズよりは、連続した値で評価したほうが少しだけ理解の弾力性が増すのではないかと思います。