セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

「生物と無生物のあいだ」なんてなかった(読書感想文)

さて、読書感想文です。

なんとなく買ってみたこの本、面白かったです。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

この本は、生物学的な見地から、生命の謎に迫る本で、筆者がポスドクとして世界各地の研究室で生物の秘密を追いかけた経験から、生命の謎についての知見が語られます。

生命の謎といえば、以前にイアン・スチュアートのこの本で、数学的な見地から生命の仕組みについて書かれているのを読みました。

数学で生命の謎を解く

数学で生命の謎を解く

生命の成り立ちには、多くの数学的な裏付けがなされるという事実を様々な事例を取り上げて説明する本で、今回読んだ「生物と無生物のあいだ」と同じく、とても勉強になりました。

「生物と無生物のあいだ」でも同様に、生物の形を決める要素には、根本的な部分に物理的な制約が関係している部分がある点を紹介しており、数学と物理学の差はあれ、私達生命を形作る要素は、遺伝子などの設計図だけではなく、数学的な必然性や、物理学的な必然性が大きな要因になっているのだろうなと感じました。

ただ、本書の要点は、物理的な特性についてではなく、生命の「動的平衡」状態についてです。

動的平衡について

動的平衡というのは、Wikipediaによると「物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態」とあります。

動的平衡 - Wikipedia

これだけでは、よくわからないと思いますが、本書では、「ルドルフ・シェーンハイマー」という科学者の行った実験が紹介されており、それによると、特殊なマーキングを行った餌を食べさせ、そのマーキング物質がネズミの体内にどのように拡散するのかを調べたところ、ネズミが食べた餌は速やかに全身に広がっており、ネズミを構成するタンパク質を置き換えていたそうです。

これが意味することは、生命の代謝というのは、全身をくまなく対象として、逐次新しいアミノ酸によって置き換えが行われているということで、「徐々に置き換えられる」とか「一部だけ置き換えられる」わけではないということです。

生物は、極小で複雑なトコロテンを組み合わせたような構造をしており、新しいトコロテンによって古いトコロテンが次々と押し出されていくという姿をしています。

私達が、「生命」と呼んでいるものは、トコロテンを作る筒の中にたまたま現時点で滞留しているトコロテンを指しています。

これから入ってくるトコロテンも、過去に出ていったトコロテンも「生命」とは呼びませんが、流れの中で一時的にその姿を留めているに過ぎないアミノ酸群との境界線は、思ったよりもずっと曖昧で儚いものなのです。

生物と無生物の境界が曖昧であること

僕がこの本を手に取った直接の動機は、「生物と無生物の境界が曖昧であることを確認するため」です。

Wikipediaの「生物」の項目を見ても一目瞭然ですが、生物と無生物を厳密に区別する境目のようなものは定義できません。

生物 - Wikipedia

一応「自己増殖」などの定義が設けられていますが、ウイルスなどの例外が存在します。また、動的平衡の考え方で言うと、「種類」の曖昧さだけでなく「状態の曖昧さ」も問題になるでしょう。

私達の身体は、絶えず無生物を取り込みながら、それらを身体に取り込み続け、吐き出し続ける「おはじき」を行っています。取り込まれるおはじきは、心臓や脳、骨などの「置き換わりそうもない部品」であっても例外なくその対象として繰り返されています。

早いものは数日、遅くても数年もすると完全に新しく置き換わるタンパク質やアミノ酸たちは、どこからが生命の部品でどこまでで生命としての役割を終えるのでしょうか。こちらも厳密な定義は難しいでしょう。

私達や、私達が「生命」だと信じて疑わない者たちは、実はそこら辺の石ころや肉片と地続きで繋がっているという事になります。繋がりという意味では、非常に細微で直感的に納得することが難しいほどですが、確かに「なめらかに」接合されるということが純然たる事実として横たわっているということです。

このような世界に「魂」のようなものは存在するのでしょうか?

存在するとすれば、私達と他の生きとし生けるもの、そこから曖昧になめらかに接合される、無生物や無機物たち、これらのものを隔て、分別し、魂を付与しているものは、どのような定義を持っているのでしょうか?

私達の知らない事実を知っていて、「なめらかでない」生命と無生物の境目を見極めているのでしょうか?

九十九神のように、無生物であっても分け隔てなく魂が与えられているのでしょうか?

(僕は、面倒くさいので「魂は存在しない」に倒してしまったほうがスッキリすると思いますが)

私達が、そして生命体が、非常に曖昧で不確定な世界に存在しているということは、どうやら間違いなさそうです。

無常な世界は動的平衡によって成り立っている

この本を読んで、一番の収穫は、「生命が動的平衡によって成り立っている」という事実です。

これは言うまでもなく、世界が無常であることを表しています。

そもそも、動的平衡によって成り立っているのは生命ばかりではありません。

打ち寄せる波や、草原を渡る風、海の水が蒸発して山野に降り注ぎ、川となって降っていく様も、全ては動的平衡によって成り立っています。

世界はひとときとして同じ姿をしていることがなく、私達と世界は曖昧でなめらかな境界線によってつながっており、自然や物理現象の連鎖に組み込まれる形で、次々と運ばれてくるアミノ酸によって動的平衡を保っています。

今こうしている間にも、世界は盛大で膨大な「おはじき」を絶え間なく続けているのです。

その濁流に一瞬現れる小さな滞留こそが、私達の正体です。

僕の求めるセカイノカタチは、また一つ確からしさを増したように思えます。

世界というのは、なんとも美しく儚く、冷酷なものですね。