セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

無我とは

私たちの目は、放っておいても物を見ようとします。目をつぶれば何も見えなくなりますが、これは逆にいうと「まぶたで光を遮断しなければ、目からの信号をシャットアウトする方法がない」という事を指しています。目をつぶっていても、目は光の感覚を脳に届けようとし続けます。

私たちの耳は、放っておいても音を聞こうとします。耳をふさいだとしても、耳は音の感覚を脳に届けようとし続けます。

私たちの鼻は、放っておいても匂いをかごうとします。鼻をふさいだとしても、鼻は匂いの感覚を脳に届けようとし続けます。

私たちの舌は、放っておいても味を味わおうとします。口をふさいだとしたとしても、舌は味の感覚を脳に届けようとし続けます。

私たちの身体は、放っておいても感覚を感じようとします。どのような姿勢であっても、身体は触れる感覚を脳に届けようとし続けます。

私たちの意識は、放っておいても何かを考えようとします。試しに1分間、考えるのを止めてみてください。

・・・。

どうでしょうか?1分でも成功した人は、稀だと思います。これが、1時間や2時間であれば絶望的でしょう。

さて、私たちの身体は、脳とそこに繋がる様々な感覚器官によって成り立っています。五感に代表される各感覚器官は、絶えず信号を発し続け、脳に電気信号を送り続けます。どれひとつとして、自在に開けたり閉めたりすることはできず、脳は24時間365日、電気信号に晒され続ける事になります。

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そして、最後の砦となる脳ですが、こちらも意に反して勝手に物事を考え続けます。

各感覚器官からの信号に敏感に反応し、様々な過去の信号と照合したりして、次の反応を引き起こすわけです。

これらの感覚+意識たちの中で、私たちが自分の意志で動かせるものがどれだけあったでしょうか?

そうです、ひとつも無いのです。

私たちは、自分では「ままならない」乗り物の中に押し込められています。

体と心、何一つ自由にはならず、常に変化し続ける様々な感覚信号の嵐に翻弄され続けています。

これが、無我です。

「いやいや、私は自分の意志で考え、自分の意志で行動している」と考えることも自然な流れではあると思いますが、1分間の無思考と、その禁を破って浮かんできた思考が「自分の意志によるものか?」という観察を繰り返し繰り返し行なってみると、それが自分の意志とは反しているという事に気づくのではないかと思います。

そもそも、自分の意思は「1分間考えないこと」であるはずなのに、勝手に浮かんでくる思考が自分の意のままなはずがないのです。

私たちが、そのことに気づきにくいのは、それが自然であり、私たちそのものであり、あまり「困っていない」からです。

私たちは、何かの信号に応じて、必要な思考が即座に頭に浮かび、体を動かすとか言葉を話すとか、聞き耳を立てるなどの反応を行います。反応することで、世界が変化し、そのフィードバックが信号として伝わることによって、次なる思考を促します。

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このループは非常に良くできており、私たちの日常に完全に溶け込んでいます。

本質的には、全く「ままならない」のに、実用上問題ないため、ままなっているかのように錯覚を起こすのです。

私たちの本能や意識に、余りにも自然に溶け込み、紛れ込んでいるため、普段の生活からは気づきにくいですが、順を追って考えていくと、私たちが「無我」であることは、純然たる事実です。

そして、無我であることは、本質的な苦しみの元となっています。

苦しみそのものと言っても良いでしょう。

何一つままならない乗り物に押し込められて、苦しくないはずがないのです。

この苦しみは自然なことで、私たちにとっての「世界そのもの」であるため、逃れることはできませんが、無我を「観察」して無我に「気づく」ことで、嵐の中にありながらも静寂を得ることができます。

無我の「観察と気づき」を瞑想によって得るわけです。