「俺(おまえ・君・あなた)が居なくなっても代わりはいくらでもいるよ。会社は回っていくんだよ」
この言説が、とても嫌いです。
そりゃ、世の中には「誰がやっても同じ」仕事が山ほどありますし、「同じ結果が出る」という均一性に価値のある仕事も一杯あります。
仕事がその人にしかできないように属してしまう「属人性」というのは、企業としてみれば、なるべく避けたいリスクですので、「いくらでもスペアが居る」状態を保っておくことは、理想のように思えます。
でも、これらは全部嘘です。
こんな考え方も、こんなことを言う人も総じて間違っています。
時間の無駄。
僕の目の前から消え去って、悔い改め懺悔した人だけ戻ってきてください。
まず、「属人性を排する」という行為ですが、直感的でわかりやすく甘美な響きを持った言葉で、僕も社会生活上、何度となく聞かされてきましたし、その重要性も理解していますし、必要な考え方だと思っています。
でも、それが全てではないです。
それが半分でもないです。
ほんのちょっとです。
隠し味にスイカにかける塩のようなものです。
主となるスイカは、「属人的な仕事」です。
だから、達観して「俺が死んでも代わりはいるよ」なんて世捨て人を気取るのは止めましょう。はっきりいってカッコ悪いですよ?それ。
あなたが居なければ会社は回らないのです。
少なくとも、「あなたが居ない別のカタチをした会社」として回っていくことになります。
回り方も、辿り着く先も別です。
そんなことを考えている暇があったら、ちゃっちゃとあなたにしか出来ない仕事をやって、会社も世界も変えてしまいましょう。
その方が、遥かに有意義な人生を送れるはずです。
属人性を排することが愚かしい理由
今回、文体を見て分かる通り、僕は結構この件に関して、感情的です。
なぜならば、このくだらない考え方が、日本の労働生産性を先進国最低と言われるほどに貶め、労働環境を最悪にし、労働意識や労働意欲を徹底的に破壊し尽くす悪魔の元凶だと思っているからです。
人の多様性というのは、極めてバラエティに富んでおり、それぞれが発揮できる能力というものにはバラツキがあります。
決して、画一的な容器に押し込んで、「必要なものを必要なだけ」みたいなキャッチコピーで、好きなときに中身を取り出せれば良いというような代物ではないのです。
そのため、一見効率的に思えるこの考え方は、短略的で近視眼的な「愚者の理論」の典型です。
効率のために属人性を排そうとしているうちに、属人性を排してもできる仕事を探すようになる悪魔の媚薬です。
能力や技能の有る人材が抜けて事業継続できなくなることを恐れて、無能を集めると言うのは、本末転倒以外の何物でもないです。
更にいうと、無能にもできる仕事であることを証明するために、能力のある人間にも無能を強要するようであれば、それこそ本末転倒どころか、ただの自殺です。
会社の運営がテレビゲームだったら
例えば、ある会社の仕事がゲームをプレイすることだったとします。
ゲームの腕前には、上手い下手があるので、「誰でもクリアできるように」攻略本を書きます。
そして、その会社の社員は入社したら攻略本を渡され、「この本の通りにプレイしてね」とゲームをやらされるとします。
社員たちは「こんな仕事誰でも出来る」と達観して黙々とゲームをやり続けるのです。
会社としては、すべての従業員が画一的な仕事をしていて代わりはいくらでもいる状態で、従業員の価値は労働時間に比例するため「価値=時間」という定量的な判断ができて合理的、と良い事ずくめで理想的に見えます。
しかし、このストーリーには問題があります。
「ゲームを上手くプレイする」と言うのは、直接的な仕事ですが、「『ゲームを上手くプレイする』ことができるように攻略本を書く」といのは、一次元高次な間接的な仕事、「メタワーク」です。
メタワークは、直接的な仕事より、仕事としての難易度は高いため、ゲームが上手い人でも、上手く攻略本を書けるとは限りません。
そして、上手くゲームをプレイ出来ない人は、攻略本を書くところまでたどり着けない*1ので、必然的に「うまく攻略本を書けるゲーム」と言うのは、少なくなる傾向にあります。
このため、「属人性を排する」ことを主体にしてしますと、「プレイできるゲームが少なくなる」という作用が発生します。
ゲームを上手くプレイすることで、価値を提供していた会社が「誰でも出来るゲームを誰でも出来る攻略本を元にプレイする」状態に陥る危険性があります。
つまり、必然的に「確保できる人材に対しての仕事の質が一段回低くなる」というジレンマがあるのです。
社会活動の本来の目的は、価値を提供することです。
「継続的に高品質の価値を提供するために、プレイヤーの交代というリスクを避けたい」と言うのが、本来の理論だったはずですが、プレイヤー交代のリスクを避けるために、交代しても影響ない程度の仕事しかせず、結果低い価値の提供しか出来ないという理論にすり替わってしまっては、本末転倒以外の何物でもないでしょう。
この状態では、社員たちは、「代わりがいくらでもいる」わけではなく「代わりがいくらでもいる仕事しかしていない」という状態になるわけです。
バカバカしい話です。
そして、このバカバカしい哲学に思考停止した管理者や経営陣は、それが正しいという理論武装のために「属人性を排する」というお題目を唱えます。
その結果「代わりはいくらでもいる」と自分たちの価値を過少に卑下して受け止める、次の世代の妄信的な管理者が生まれるという、負のスパイラルが渦巻いていくわけです。
仕事は非効率であることが求められ、労働の価値を測る物差しは、「長時間の残業のみ」という理論がまかり通り、工夫して生産性を高め短い時間で成果を出すことを「他のプレイヤーがプレイできないようなゲームは止めろ」というマイナスの評価を下すような会社が出来上がるというわけです。
答えは簡単「待遇を良くする」こと
会社を運営していくという社会活動の主目的は「価値の創造」です。
創造された価値には対価が発生し、継続的に会社の運営が可能となるというサイクルこそが、資本主義経済の本質です。
この「価値の想像」にフォーカスするのであれば、属人性の問題はあくまでオマケです。
優秀なプレイヤーを失う恐怖を少しでも減じたいのであれば、従業員の待遇を改善すべきです。
シリコンバレーでは、最高の価値を提供するために、世界中から最高の人材を集めることに躍起です。
最高の報酬を用意し、掃除洗濯食事や居心地のよいオフィス、その他あらゆる手段を講じてライバルよりも多くの人材を奪い取る事が勝利の条件だと信じられているからです。
もちろん、最高の人材に最高の仕事と報酬が与えられる一方、そこからあぶれた人達の待遇は決して良いものとは言えないでしょう*2。
しかし、それを怖れて画一性を求めるような臆病で愚鈍な社会にはイノベーションは生まれませんし、世界がフラット化する中で、最先端の価値を創造できない国に未来はありません。
本当の資本主義は、自由と責任と競争の世界です。
単に労働環境への意識の違いというだけではなく、文化の根っこの部分から全く違うわけです。
数日前の記事の焼き直しになってしまいますが(同じ人間が同じ頭で考えているので仕方ない)、画一教育を施した子供たちを新卒一括採用して、人格破壊を行って会社色に染め上げる、日本の社会システムが根本的な所で行き詰まっているのです。
競争を避けて全員が不幸になる「優しい世界」からは、卒業する覚悟が必要です*3。
だから、冒頭の言説を許してはいけないのです。
日本にはびこる画一性の罠に対して、毅然とした態度で望む覚悟が必要なのです。
僕は、日本人にはそれができると信じています。