ブックマークにコメントしたらスターがついてるので蒸し返してみる。
ソフトウェア開発における「山の民」とは、SIerと、そこからそびえる巨大なピラミッドに身を置く、SE・プログラマー達の事です。
ブラック・社畜の代名詞と言われる業界で、日本の情報化社会を縁の下から支える人柱たちです。
僕は、そんな山の民出身のエンジニアなので、山の民の生態について適当に紹介します。
ウォーターフォール
山の民は、ウォーターフォールが大好きです。
というか、不器用なんでこれしか生き方を知りません。
最近は、アジャイルだとかスクラムだとか言う人も居ますが、そんな女子供の使うような開発プロセスを男の世界の住人である山の民が取り入れるはずがありあせん。
男は、不器用に生きるものなのです。
ウォーターフォールの真の意味
そんな男前な理由もさりとてですが、山の民がウォーターフォールを採用するのには、もっと現実的な理由があります。
それは、予算策定と調達計画です。
皆様御存知の通り、資本主義社会では、システムというのは「資産」です。
資産というのは、計画され調達され減価償却される必要があります。
もう少し詳しく述べると、ある会社が1億円掛けてシステムを導入した場合、1億円の損金が発生するわけではなく、単純に現金がシステムに変換されただけという解釈がなされ、1円も価値を減じること無く資産の項目に計上されます。
当初は1億円の価値のあるシステムも使用期間が経過するに連れ、じわじわと価値が減じていくはずなので、「減価償却費」という儀式を経て最終的に無価値となります。
これがシステムのライフサイクルとなるわけですが、大企業では、調達するシステムに対して、細かく予算設定を行います。
先の1億円のシステムは、導入効果として年間3000万の費用削減効果があると見込まれます。
通常システムは、5年で減価償却を行いますので、1年辺り2000万になります(定額法の場合)。
このため、5年間で5000万円の効果が見込めるわけです。
このことをエクセルで事細かに試算した別紙を付けた稟議書を作成し、役員会やステアリングコミッティーと言われる儀式におずおずと提出して、ハンコがつかれることによって初めて、プロジェクトとして動き始めるわけです。
大企業のIT部門にはトップダウンで年間予算が割り当てられているため、この額より大きくても小さくても無能扱いされます。
決められた予算の分だけシステムを調達したり保守したり破棄したりしなければ行けないという苦行を課される哀れな召使いたちです。
策定された予算計画を元に要件定義→発注→設計→製造→テスト→リリースという工程を踏み、運用フェーズに入り、5年間運用され破棄されます(勿論付け替えるうちは使い続ける方が多いです)。
ここまでの段取りが、全て巨大なウォーターフォールプロセスとなるのです。
狭義のウォーターフォールが、システムの受注からカットオーバーまでを指すとするならば、こちらのウォーターフォールは、計画からEOL(エンドオブライフ)までを指します。
狭義のウォーターフォールだけを見た場合には、アジャイルのようなプロセスに置き換え可能なように見えますが、システム化計画全体を見渡した時には、結果をコミットしないプロセスは、この枠にハマりようがありません。
- そのシステムは、いくら掛かるんだ?
- 費用対効果は?
- 何年で償却するつもりだ?
役員達からの矢継ぎ早の質問に対して全くの無力と言っていいでしょう。
このため、大企業の情報システム部門(情シス)の人達は、大前提としてウォーターフォールモデルを取らざるを得ないという結論になっているのです。
そして大手SIerは、情シスと昵懇となり、予算策定から支援することで、スムーズに受注につなげるパイプを敷いていることが多く(癒着とも言う)、情シスが予算を取りやすいようにシステム化提案を行います。
この提案は、勿論ウォーターフォールです。
これは、山の上に山が乗っているようなもので、日本の上層部におけるシステム開発でこれをひっくり返すというのは、相当なインパクトが必要なのだと思います。
日本のITを変える!と目をキラキラさせて大手SIerに入社した人(そんな人あまり居ないと思いますが)でも、この山の構造に気づき、己の身のあまりの小ささに絶望して、死んだ魚のような目になっていくこと請け合いです。
そして、みんな高倉健のように男の背中に哀愁を漂わせつつ夜の街に消えていくのであります。
自分、不器用ですから。
ウォーターフォールしか知りません。
おしまい。