宗教にとって信仰というのは大切なことだと思いますが、仏教において「信仰」というのは、特殊な立場にあります。
何故ならば、仏教において僧たちは「執着」を捨てて涅槃に至ることを目指しますが、信仰というのは執着そのものです。
特に、神や(超常者としての)仏や絶対的な救済と言うものは、形而上学的な存在であり、仏教においては「無記」の対象となります。
仏教の修行を進め、悟りに近づくにつれ、世界をありのままに知覚する如実知見のスキルが上達していきます。
どこかの時点て完全に執着を捨てきり、ゼロになったとき、彼(彼女)を仏教徒と呼べるのでしょうか?
そこに至らぬものは、修行不足が故に信仰を捨てられず「仏教徒」と呼べるかもしれません。
悟りに至ってしまった人は、恐らく「自分が仏教徒かどうか」なんてことはどうでも良いのだと思います。
つまり、仏教というのは、仏教徒の集団でありながら、その中心の一点だけは仏教徒とも仏教徒でないとも言えないものが鎮座しているという構図になるわけです。
これは、仏教の面白い性質なのではないかと思います。