仏教が目標とする、二大要素は、「涅槃」と「慈悲」です。
輪廻や業や苦や無常や無我というのは、目標に対する世界観(というより世界そのものではありますが)を説明しているにすぎず、能動的に行う行動指針としては、涅槃と慈悲の2つになります。
涅槃については前回説明しましたが、端的にいうと主観をゼロにすることです。私たちのこの世界をありのままに捉え、知性や矛盾を超えた先にある、究極の安息地を目指します。
慈悲を理解するためには、この涅槃の理解が前提となります。
何故ならば、「至上の楽」が涅槃にあるのであれば、「慈悲」もまた、「至上の楽」である、涅槃に導くものでなければならないからです。
涅槃というのは、空間や場所で捉えられるものではないですが、仮に「ゼロとなる点」として中心に涅槃を置いてみると、涅槃に到達していない人々(つまりほぼ全ての人々)は、その周りを闇雲にウロウロしていることになります。
そのうち何人かは、中心に向かっているのかもしれませんが、横滑りする人や、離れていく人も多くいるわけです。
このような人々に対して、中心から働きかけ、中心に向かって引っ張る力こそが「慈悲」の正体です。
慈悲の行いは、必然的に涅槃に導く性質のものになりますので、「お腹をすかせた人々に、パンやワインを分け与える」といった行いは「慈悲」にはあたらないわけです。
これは、ブッダの行いを見ても明らかです。ブッダは何も持たないですし、何も分け与えません。ただ灯明のように人々を導くのみです。
涅槃を得た人にとって、世界は「無常に流れ行く濁流」としか映らないのですが、その濁流の中で溺れている人達を導こうという気持ちが起こらないわけではありません。むしろ、そのような気持ちが自然と起こることも無常なる世界の一部であり、否定されるものではありません。
涅槃を得た人も、誰かの影響(つまり業)によって、その境地に辿り着いたのでしょうし、次の誰かを涅槃へ導くために、影響力を行使することも、自然なことといえます。
こうして、涅槃と慈悲は、中心点(ゼロポイント)に向かって人々を引き寄せる吸引力としての両輪を担っています。
まるでジェットエンジンのように、エンジンの排気による排圧が次の空気と燃料を吸い込む負圧となり、連続して中心点(ゼロポイント)に導き続ける動的平衡を保っているのです。
これは、仏教が2600年以上も続いてきた秘訣ともいえるもので、慈悲とは、涅槃のおまけのようなものではなく、2つセットで仏教の中核を担っているわけです。
ブッダに慈悲が無ければ、仏教が開始されることもなかったわけですが、その後の発展と継続にも、慈悲の力が大きく貢献してきたのです。
ひょっとしたら、涅槃に至りながらも、慈悲が無かったために広まることのなかった修行者が無数に在ったのかもしれません。
涅槃に在って涅槃に引き寄せる力。それが「慈悲」なのです。