セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

マーブルワーズ

2018年も暮れたので仏教について身も蓋もない説明を企てる

ここ数年、仏教についてあれこれ調べていますが、仏教の基本構造が、自分の中で一体化した理論形態として理解できたので、ここらでまとめておきたいと思います。

システム屋という職業のせいか、私の性質として、「すべてのものを正規化したい」という思いが強くあります。正規化とは、すべての「余計なもの」と取り去り、可能な限りシンプルに物事の本質を表すという事です。それ自体が、仏教の思想に通じるものがありますので、今回のまとめにおいては、仏教の本質的な意味を「身も蓋もなく」記したいと思います。

なお、ここでいう仏教は、初期仏教の伝統を残す上座部仏教を対象にしています。6世紀ごろに日本に伝来した大乗仏教とは、大きく趣が違います。

更に、上記の正規化により、宗教色のようなものは殆ど残らなくなります。人と世界の在り方を私たちが実際に触れることのできる当たり前の事実から明らかにしていきたいと思います。

死後の世界について

宗教の重要な役割として、「死後の世界の定義」があるそうですが、仏教においては死後の世界は「無記」とされています。つまり、何も説明されていなだけでなく、明確に「何も記さない」ことが記されています。このことは、死後の世界についてあれこれ考えることは無駄であり、心理を理解する妨げになるということを表しています。

仏教の哲学を本質的に理解するのであれば、死後の世界なんてもの問題になること自体、色々なロジックを裏返していくことになり、真理を妨げる元凶であることがわかります。

死への恐怖というのは、人間の持つ恐怖の中でもひときわ大きいものであり、根源的な存在に関わる問いです。そのため、単に「意味がない」と言われても、すぐには「ああそうですか」と納得できないと思います。

そこで、おすすめの方法としては、「死後の世界は無い」という方に仮定を倒してしまうといいと思います。

どうせ、涅槃に達すれば輪廻から解脱して消滅するわけですから、最初から「消滅する」と思っておけば涅槃も解脱も不要となり便利です。

死後の世界も輪廻転生も、誰も見た人も確かめた人も居ないわけですから、便利な方に倒しておいた方が、好都合ですし、真理の理解もしやすいのではないかと思います。

無我

私たちは無我です。

無我というのは、修行の末「我を無くす」ということではありません。

私たちは、元々無我であり、これからも無我です。すべての人が例外なく我なんてものを持ち合わせていないのです。

簡単な実験をしましょう。

それでは、ピンクの象を想像しないでください。

・・・。

思わず、ピンクの象を想像してしまったと思います。

これは、「脳は否定形を認識できない」という文脈で行われる実験ですが、それよりも重大な事実が隠されています。

それは、そもそも、「人間の脳は自分自身でコントロールできない」という事実です。

そして、コントロールできないのは脳だけではありません。

今度は、このピンクの象を見ないでください。

Beauty in pink

見てしまいましたね?

今度は、想像するだけではなく、実際に見てしまいました。ただし、目の場合は、脳とは少し違って、見たくなければ目をつぶればよかったりします。

しかし、このことにより非常に重大な事実を私たちは誤認しがちです。それは、私たちが目からやってくる信号をカットできないということです。

人間の目には瞼という幕が装備されているため、必要に応じて視界を遮ることができます。しかし、実際には瞼を閉じたとしても、目からくる信号が停止するわけでは無いという事は、炎天下に目をつぶったとしても、外が明るく感じることからも明らかです。瞼は単に、目に入る情報を制限しているにすぎないのです。

人間の脳が処理する信号の大部分は視覚情報の処理だと言われています(8割ぐらい)。その資格情報をある程度自由に制御できることは、私たちに大きな勘違いをもたらし、自身の体を自由に制御可能だという誤解を生みます。

実際には、ピンクの象を見ないことはできません。瞼を閉じない限りは。

同様に、音や臭い、味や感覚についても、自分で制御することはできず、垂れ流しです。

私たちは誰もが一度ぐらいは、「うるさくて眠れない」という経験をしていると思いますが、自身を自由に操れるのであれば、感覚をシャットアウトすれば良いだけです。それができないのは、私たちの体がそのようにできてはいないからです。

私たちの五感に栓は付いていません。

どんなに、苦しく深いな情報であっても、ただ身を任せるしかないのです。

そして、五感からくる信号の行きつく先である、私たちの脳も、私たちの制御下にはありません。脳は基本的に勝手に物事を考えます。

ピンクの象を想像しないこともできないし、うるさくて眠れない音の出所について考えないこともできません。

それどころか、1分だって何も考えないでいることはできないでしょう。

それが、私たちの体です。

私たちは無我なのです。

無常

そして、無我なる私たちが生活しているこの世界は、無常であるという性質を持っています。

無常というのは、情が無いという意味ではなく、常が無いということです。つまり、継続的に変化しており、ひと時として同じ様を保っていることが無いという事を指します。

私たちは、今いる世界の変化を1年、1カ月などという単位で区切り、同じような期間が繰り返し訪れるような錯覚を引き起こす仕組みの中で生活していますが、実際には、世界はどこかで始まってから今まで、ひと時として同じ状態を取ることなく、変化し続けてきました。川の流れのように変化し続け、その先に何が待つのかは誰にもわかりません。

この無常という性質は、大きく二つに分けることができます。

ひとつは、私たちの世界の法則としての無常です。今説明したように、私たちの世界は循環ではなく拡散によって、広く冷たく、均一に伸ばされていく過程にあります。今日の太陽は、機能と太陽とは全く別物ですし、たとえ金属のような固い物質であっても、崩壊し薄く冷たくなっていく流れに逆らうことはできません。

もうひとつは、私たちの五感を通しての世界の無常です。

私たちは、自身では制御不能な五感の情報によって世界を認識しています。これは、生まれてから現在まで、ずっと続いてきた事実で、私たちの中には、五感を通さなかった情報は何一つありません。そして、これからも五感を通さずに情報を得ることは一切できないのです。

そして、この五感から与えられる情報というのは、世界の法則としての無常よりもずっとダイナミックに変化しつづけます。私たちが「嫌だ」といっても拒否できない、世界からの様々な信号は常に変化し、新しい情報を提供し続けます。これこそが、より本質的な無常です。

世界の無常というのは、私たちが五感の情報から類推した世界の在り方を想像したうえでの無常ですので、本質的には存在しません。如何に、世界の法則が堅固に確立されており、私たちが生活する上で、その法則上から外れる事象が全くなかったとしても、想像は想像です。

より本質的に確かなものというのは、直接五感から得られる情報そのものに他なりません。

とはいえ、私たちが観測によって世界の法則のほころびを見つけることは、ほぼ不可能であろうと思いますし、世界を構成する法則として、二つの無常が存在するという理解をしておけば十分だと思います。

輪廻と業

無常なる世界は、輪廻と業によって成り立っています。冒頭に「輪廻転生など無い」という方向に理解を倒すという話をしましたが、ここでいう輪廻とは、人間が死後、別の人間に転生するような「なろう」系の話ではなく、刻々と変化し続ける無常なる世界の変化を指します。

世界は変化し続けているため、とある瞬間の世界と次の瞬間の世界は全く別のものです。つまり「A→A'」のような変化が常に起きているということになります。この「A→A'」への変化を輪廻と呼びます。

そして、その変化を引き起こす力が「業」です。変化前の世界と変化後の世界が全く別のものだとは言っても、変化後の世界は直前の世界の影響から逃れることはできません。むしろ、直前の世界が持つ力が、次の世界の形をほぼ確実に決定します(量子の不確定性があるので完全にではない)。

この次の世界を決定づける力の総体が「業」というわけです。

そして、業が生み出す次の世界もまた、同様にその次の世界を決定づける業を持ちます。業により輪廻が起こり、輪廻は次の業を生み出すという因果により、世界は無常なる変化を続けるわけです。

私たちは、世界を作り出す業と輪廻の濁流に飲まれ、濁流の内にあって翻弄される木の葉のような存在なのです。

その中で幾らもがいても、その力は微々たるものですが、そのもがきでさえも、濁流を構成する一部でしかないという逃げ場のなさです。

私たちは、自身も自由にならず、世界も自由にならないという不自由の中にいるのです。

苦と涅槃

世界は輪廻していて、私たちは無我です。

どこを見ても、何をしても、ひとかけらの自由もない世界で暮らしています。

これが、私たちを取り巻く「苦」の正体です。

「苦」とは苦しみの意味でもありますが、不満足の意味でもあります。私たちは私たちの世界を自由に生きたいと願っていますが、その願いは何一つかなえられないということになります。

無我、無常、輪廻と業についての理解が深まっていれば、苦を理解するのは難しい事ではありません。それは、当然のことだからです。こんな世界で私たちが苦しくないはずが無いのです。

苦から逃れるすべは、唯一「涅槃」にたどり着くことだけです。

とはいえ、無我、無常、輪廻と業の世界から、どうやって逃れれることができるのでしょうか?

それは、私たちと世界をつなぐ唯一の手段である、五感と意識に対して、完全なる観察者になることです。私たちが五感から常に与えられる濁流のような情報の渦に飲み込まれていること、そしてその膨大な情報に対して一々反応して様々な思考を起こす意識についても、客観的な観測を続けることです。

世界を正確に理解するためには、世界から来た情報を元にあれこれ推論するのではなく、情報そのものをありのままに眺める必要があります。それこそが、唯一無二となる「苦」からの脱却方法に他ならないからです。

そこは、矛盾や逆説、無限や永遠、虚無や空虚、パラドックス、ジレンマ、論理的な不整合のるつぼです。直感では理解できない世界に踏み込んでいき、限界を突き破る必要があります。

その世界は、到底言葉には表せないのです。ただ、瞑想し、修行するしかありません。ただ、心と体、生活のすべてをシンプルにしていくしかないのです。

慈悲

そして、最後に慈悲です。

人々は涅槃に達することで、最終的な解脱を得ます。苦悩に満ちたこの世界から脱却するのです。

既に、無我であり無常であり輪廻する世界を理解し、脱却を願う時点で、生とか死とか死後の世界なんてことは、些末だということがハッキリとしています。

ゴールはここにしかないのです。

となれば、他の人たちも同じようにここに辿り着けるように導いていくのが人の道というものでしょう。

つまり、慈悲とは、世界の濁流に飲まれ苦しむ人々を涅槃へと導く行いに他なりません。

飢えや死別の苦しみを直接的に解決しても、その場しのぎの救済にしかならないことを知っていますから、野良犬にミルクを与えるような行為は慈悲とは呼べません。涅槃の風光から見れば、更なる苦しみを呼び込む手助けにしか見えないでしょう。

まとめると

以上が、端的にまとめた仏教の基本構造になります。

それぞれの要素は、可能な限り形而上学的問いや、宗教性を排除し、私たちが普通に感じていることを中心に、シンプルに記述したつもりです。

「宗教=死後の世界」的な先入観を排除するために、冒頭に死後の世界についてのくだりを書きましたが、本題からは外れているので不要だったかもしれません。

そしてこの記事を2018年中に公開するという望みを何とかギリギリ達成できてよかったです。^^;