セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

主観と自我、瞑想についての質問をいただきました

qtamaki.hatenablog.com

先日のこちらのエントリーですが、 id:naisei さんから、質問をいただきました。

とても良い質問で、考えさせられますし、元エントリーにて、説明が足りなかった部分を補えると思いますので、追加のエントリーを起こしたいと思います。

id:naisei さん、ありがとうございます!

id:naisei

すごく考えさせられるお話でした。

浮かんできた疑問が3つあるので、もしお時間があれば教えてください。

1、主観ゼロ=自我(自意識)ゼロということでしょうか?そうなると「自分が生きている」という実感すらなくなり、死んだも同然の状態になる?

2、「他人にはもしかしたら自我がなく、自分だけがこの世界に「生きている」のかもしれない」というバカな妄想をよくするのですが、タマニチェンコさんはこの「世界の中心は自分かもしれない」問題をどう考えておられますか?

3、最近流行のマインドフルネスを実行していけば、世界をありのまま受け入れる状態に近づいていけるでしょうか?

バカな質問ですみません。お答えいただければ幸いです。

いえいえ、バカな質問どころか、本質を突いた鋭い疑問です!

納得行くお答えになるか怪しいですが、回答したいと思います。^^

仏教について

まず、先にお断りとお詫びを申し上げたいと思います。

元エントリーは、あえて「仏教」という言葉や「仏教用語」を避けました。

仏教というのは、宗教的な側面と哲学的な側面があり、哲学的な側面においては、仏教である必要がないと感じているからです。

ですが、内容としては、まんま仏教の涅槃・悟りに関しての説明となっています。

仏教用語を使用すれば、説明が楽になる部分も多かったと思いますが、それだと、用語に固着した意味に引っ張られる可能性があるのと、宗教観が混ざると思想部分の説明にブレが生じる可能性があると思い、あえて外したわけですが、そのせいで説明がすごく回りくどい言い方になってしまい、余計わかりにくくなった部分も多かったかもしれません。

謹んでお詫び申し上げますが、本エントリーでも仏教色や仏教用語はなるべく避けて行きたい所存です(追記:無理でした)。

主観ゼロ=自我(自意識)ゼロ?

1、主観ゼロ=自我(自意識)ゼロということでしょうか?そうなると「自分が生きている」という実感すらなくなり、死んだも同然の状態になる?

さっそく、第一の質問ですが、主観が無くなるというのは自我が無くなると同義ではないか?という疑問については、まさにその通りだと思います。

ただし、間違いなく主観ゼロを体験したであろうと思われる「ブッダ」でさえ、悟り後においても普通に会話をして、ご飯を食べて生活していましたので、自我が無くなって廃人になるということはありません。

ただ、悟りを得たものは、「もう二度と悟り前の状態には戻らない」という説明が強く繰り返しなされることから、主観ゼロの世界を体験した人は、世界観が一変して、それまで自身が「世界だ」と思っていたものが、「実は違った」ということに気づいてしまうということになります。

これは、最終的不可逆的変化で、これを体験してしまった後には、それまでのような主観によって目が曇った状態に戻ることはできないということを示しています。

まるで、夫が不倫していることを知ってしまった妻が、以前のように夫を愛せなくなるように、決定的な情報というのは、人の生き方を変えてしまうということです。

単純化すると、「主観ゼロ」に対する人の状態は4つあって、下記のような感じです。

  1. 主観がゼロという世界を知らない
  2. 主観がゼロという世界を知っているが、体験したことがない
  3. 主観がゼロという世界を体験中
  4. 主観がゼロという世界を体験したことがある

人類のほぼ全ての人は、ステージ1にいます。人生が苦しいことは分かっていても、何が原因かも、どうやったら抜け出せるのかについても分からずにただ苦しんでいる人達です。

仏教や瞑想を志す人達が、ごく僅かにステージ2に進んでいます。主観を減じていくことによって、苦しみもまた減じていくことを知っており、中にはそのことを実践している人もいます。ステージ2と言っても、人によって状態は幅広く、主観ゼロという世界があることを今知った人もいれば、修行が進み、主観がもうほとんど残っていない人もいるわけです。

そして、ステージ3の「主観がゼロ」な人達ですが、これは修行の完成として、一瞬だけ訪れます。その瞬間に、「世界が流動する事で起こっている生成と崩壊の嵐」がピタリと止み、完全なる静寂が訪れます。主観も客観もなく自我も無い、完全なるゼロポイントにおいて静止するのです。

全ての世界の静止と静寂を知ることで、世界や自身が、形を持たないプロセスの一部であることを完全に体感し理解します。

もし、それを知ってしまったら、もはや「後戻りできない」ことは明らかだと思います。ステージ4に進んだ人は、世界の仕組みを完全に理解しているわけですから、世界の仕組みを理解した上での思考や言動に変わってしまっているわけです。

とはいえ、完全に静止した世界にいつまでもとどまることは出来ない(と、思う。ひょっとしたらとどまり続けて死んだ人がいないとは言えないので)わけなので、主観は回復し、日常生活に戻ることになりますが、そこまで体験した人にとって、世俗で発生するような欲や嫌悪が意味を持たないことを知っていますから、非常に弱い、必要最低限の主観しか持たない状態になります。

そして、修行を続ければ、再び主観ゼロの境地に至ることになるので、ステージ3と4を行ったり来たりするようになります。

つまり、回答としては、「主観がゼロになることによって自我も無くなるが、その状態がずっと維持されるわけではない」といった感じでしょうか。

自分だけが自我を持っていたら

2、「他人にはもしかしたら自我がなく、自分だけがこの世界に「生きている」のかもしれない」というバカな妄想をよくするのですが、タマニチェンコさんはこの「世界の中心は自分かもしれない」問題をどう考えておられますか?

続いての質問ですが、「世界が自分の自我でできており、自分の自我が終われば世界も終わるかもしれない」という問題は、難しい問題です。

「世界が自分によって出来ている」ということは、ある意味その通りなので、その理解でも問題ないんじゃないかと思います。

自分の自我の外に世界があるか?ということを知るためには、自我の外に出てみないとわからないわけですが、私たちは、どうやってもこの身体を抜け出せないため、証明することができません*1

主観を減じていくことにより、自我が消滅した世界に入ることができますが、それとて「主観の外」を見るわけではないので、問いの答えは得られないでしょう。

ですが、主観を減じて、世界をありのままに感じることで、自分自身の身体や心を含め、すべては怒涛を成して流れ行くプロセスの一部であることを体感し、理解することができます。すると、自我と呼んでいた「何か」は形を失い、それすらも存在しないことを知る事になります。

結局、自我とて、気ままに移ろいゆく、儚いプロセスの一つです。私たちにとって、何一つ自由になるものなど無いのであれば、「世界に自分しかいないかも?」という疑問は、その前提である自我の存在が崩れることによって消極的に解決します。

マインドフルネス瞑想

3、最近流行のマインドフルネスを実行していけば、世界をありのまま受け入れる状態に近づいていけるでしょうか?

最後の質問ですが、答えは「イエス」です。

ブッダによれば、気づきを育てて涅槃に至るには、五戒を守り、修行するしかありません。それが唯一の道だと説いています。

可能性の話をすれば、他にいくらでも道があるのでしょうが、エベレストに登る道が無数にあったとしても、現実的に人間が死なずに頂上まで辿り着けるルートが幾本も無いように、殺生をして嘘をつきながら涅槃に至るルートは厳しすぎて、実現不可能なのでしょう。

現実問題、現代社会で生きる人間の脳は、相当こんがらがったスパゲッティ状態にあるのだと思います。

これを解きほぐし「サラサラ」の状態にするには、一旦世俗から隔離された場所で、スマホやパソコンはおろか、文字も読まないような生活を送りながら、瞑想に励む必要があるのかな。と思います。

ただ、これを行うには、出家や長期的なリトリートが必要だと思いますので、社会生活を営みながらだと難しいですね。

在宅でも、瞑想自体は簡単にできますし、リラックスして集中力が高まり、夜も眠れるようになるのでおすすめです(個人の感想です)。

おわりに

ということで、答えになったようなならないような?

可能な限りの回答をしてみました。

もし、追加のご質問がおありでしたら、受け付けますし、他の方でも疑問があれば、ご質問ください。

質問について考えることで、僕もこの世界の理解がより一層深まりますので、とてもありがたいです。

Mindfulness

*1:身体を抜け出したとしても(例えばロボットとか)、継続した自我をともなうのであれば、自我からは抜け出せませんね。身体が入れ替わっただけです