- 作者: シェリー・ケーガン,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2018/10/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『「死」とは何か』を読みました。
私たちには魂がある、何か身体を超越するものがあると信じている。そして魂の存在を前提として、私たちには永遠に生き続ける可能性があると信じている。
言うまでもなく、死は究極の謎であることに変わりはないが、不死はそれでもなお正真正銘の可能性であり、その可能性を私たちは望み、ぜがひでも手に入れたいと思う。というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。それはあまりにも恐ろし過ぎる。
だから私たちは、それについて考えまいとする。身の毛がよだつようなことなので、仮に死について考えたら考えたで、不安と恐怖に呑み込まれる。
また、これが生と死という現実に対して人が示しうる唯一の分別ある反応なのが、火を見るよりも明らかに思えてしまう。
人生は信じがたいほど素晴らしいから、どんな状況に置かれていても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。死なずに済めばどんなに良いか。だから、自殺はけっして理にかなった判断にはなりえない。
P372 より抜粋
本書は、このような素朴な生死観に一石を投じることを目的としています。
ともすれば、禁忌として眼をそむけたくなる、「死」についての本格的な議論というのは、珍しい行いなのかもしれません。素朴な生死観というは、別の言い方をすれば「深く考えていない生死観」です。誰かの言う事を鵜呑みにしたり、なんとなく周りの人が言っていることを総合して、自分の中で都合の良いように、ぼんやりとした定義でまとめて、満足しているということです。本書は、そのような人たちに対する啓蒙書となっています。
本書は、それなりの厚さのある本ですが、「死」に関する様々な話題に対して、想定されるケースや特殊なケースなど、あらゆる角度から検証を加えます。そして、冒頭にあげたような素朴な生死観が本当に妥当なのかについて、現実的な説明を行っていきます。
残虐な生死観の解体ショーともいえる内容になるので、人によっては直視するのが怖いような話が次々と展開されていきます。
感想
たいそうな前置きをしておいてナンですが、自分としては退屈な内容でした。
西洋的な哲学というのは、物事の真理に至ることが無いように思えます。本書も、膨大な量のケーススタディを積み上げており、それに関しては驚嘆に値する内容だと思うのですが、すべてを説明するような本質的な理解に踏み込むことはありません。
結局、価値の比較であるとか、良い人生や悪い人生についての論証は、自分たちの主観によって論じるほかなく、議論の終着駅も各自の中で納得のいくものを選択せざるを得ません。
本書においてもそれは変わらず、さまざまな話題について論じていきますが、いくつかの立場を示し、それぞれの特徴を並べるところまでが筆者の仕事であるかのように、そこから導き出される本質的な議論に踏み込もうとはしません。
ひとつ、興味深い部分を挙げると、P291から仏教の世界観として下記のように書いています。
この世には苦しみがある。病がある。死がある。痛みがある。たしかに、私たちはほしいものもあり、運が良ければ手に入れられる。だが、それから失う。そして苦しみや痛みや惨めさを募らせるばかりだ。それならば全体として、人生は良いものではない。
仏教徒はこの判断に基づき、こうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失ったときの痛手が最小限になるようにしようとする。それどころか、仏教徒たちは自己が存在するという幻想から自らを解放しようとする。自分が存在しなければ、何一つ失うことはない。
死ねば自分が消滅するのではないかと心配しているから、死は恐ろしい。だが、もし自己がなければ、消滅するものがない。
流石に賢い。仏教の構造について、その深い部分は置いておいたとしても、正しく理解していると思います。このまま、仏教的な価値観に沿って、生死観を見直していけば、違った答えにたどり着けるかもしれません。しかし、すぐに筆者は「だが、良かれ悪しかれ、私は西洋の生まれだ。私は「創世記」の産物だ。「創世記」では神は世界を眺め、それが良いものであると判断を下す」として一蹴してしまいます。そういう話では無いんだけどな・・・。と思いましたが、それがキリスト教圏の限界なのかもしれません。キリスト教の基盤は信仰であり、信仰というのは主観の賜物です。主観的な物事の判断というのは、どこにも出口がなく、それゆえに心理にたどり着くことはできないのですが、主観を失うということは、信仰を失うことに繋がりますので、デッドロックしている感じです。
というわけで、前編に渡る論考は出口には至らず、同じところをグルグルする感じになります。
主観や思い込みを捨てれば、出口から外に出たり、深く本質的な議論に踏み込んだりできると思うのですが、持って回った言い方や奥歯に物が挟まったような言い回しに終始してしまっているのは残念としか言いようがありませんでした。
まあ、ぶっちゃけ「正義」の話を読んだときと同じで、自分の中で持っている答えがどの程度"正しい"のかについての検証がしたくて読んだだけなので、この結果は予想通りで満足ではありました。
自分の正しさを知るために、正しくないとわかっている本を300ページ以上も退屈を我慢して読むというのは、マゾいし、性格が悪いなと思いました。おしまい。