オヤジギャグについて考えてみた。
オヤジギャグは、オヤジが言うものという認識がある。主にダジャレだ。
そもそもダジャレに爆笑するという場面は、あまり聞いたことがないので、「笑い」の中でも程度の低いものである。
そして大概すべる。怪我をする。
しかし、オヤジ達は懲りずに今日もオヤジギャグを飛ばし続けるのだ。
なぜそうなるのか?人は年を取るとくだらないダジャレを言いたくなる生物なのか?オヤジ以外はオヤジギャグを言わないのか?
ひとしきり考えた結果、私は、ある仮説に辿り着いた。
人は誰でもオヤジギャグを発する生物だ
人間にとって、オヤジギャグというのが経年変化によるものでは「ない」と仮定しよう。
人は誰でも、オヤジギャグが言いたい。言わせて欲しい。言わせてちょんまげ。
・・・とすると、何がオヤジギャグの発露を阻害してしまっているのであろうか?
老若男女、等しくオヤジギャグを言いたいと仮定した時、それをさせない見えない力が働いているというのだろうか?
オヤジギャグも年功序列
それは、人間の社会性が大きく関与しているのだと思う。
特に日本人にとっては、「目上の人に対して冗談をいう」という行為は、ハードルが高い。
例えば、上司が新入社員に対して、「君はどうしてウチを志望したのかね?」と質問した時に、「脂肪を多く取ると、肥満になり死亡率が高まります」と答えたとする。
「志望」、「脂肪」、「死亡」が掛かった高度なダジャレである。
しかし、場の雰囲気は凍りつくだろう。ヘタすると致命傷になりかねない。
このように、若者たちは自由にオヤジギャグを発することができない社会秩序が出来上がってしまっているのだ。
悲しいことに、日本社会においてはオヤジギャグも年功序列なのだ。
オヤジギャグは偉い人のもの
しかし、このような若者たちも、幾多の困難を乗り越え、中堅になりベテランになる頃には、周りから目上の人間がいなくなり、いつしか立派なオヤジとなる。
そして、その時こそ、今まで積滞させてきた長年の鬱屈を晴らすべくオヤジギャグを世に解き放つことはできるようになるのだ。
「昨日、泥棒が入ってさ、楽器を盗んでったんだよ。どろんぼーん(トロンボーン)。・・・なんちって」
やはり、場の雰囲気は凍りつく。
オヤジギャグはステータスシンボル
オヤジギャグは、一部に深刻な環境被害をもたらすケースも報告されているが、オヤジ達の地位向上の証なのである。
言わばステータスシンボルである。
周りに気兼ねなく、オヤジギャグを言う自由。彼らは、血の滲むような下積み時代を経て、今ようやっとこの世の春を押下しているのだ。
もし、あなたがまだオヤジギャグに眉をひそめている立場の若者ならば、パワハラなんで無粋なことは言わず、「オヤジギャグを言える自分」を目指して頑張ってもらいたい。