我が家には2才児がいます。
世の乳幼児のご多分にもれず、我が家のチビも機関車トーマスが大好きです。
機関車トーマスとは、顔のついた機関車たちの物語で、人間のようにおしゃべりをし、自律的に動きまわり、時に騒動を起こすトーマスとゆかいな仲間たちが、失敗をしながらもも、役に立つ機関車を目指して日々自分たちの職務をこなしていくお話です。
こんな説明をしなくとも、大抵の人は知っていると思いますが。
トーマスたちの願いは、ソドー島で一番役に立つ機関車と、みなから思われることです。
彼らにとって、「じゃれあって遊びたい」「蝶々さんを追いかけたい」「冗談で仲間を笑わせたい」といった短略的な欲求以外の中長期的な願望はこれだけです。
彼らには、欲と呼べるようなものが殆どありません。石炭が無くなってもお腹も減らないし、性欲もありません。一応性別はあるようですが、男女関係は完全にフラットです。睡眠欲はあるようですが、いざとなれば寝なくても平気そうです。 どうやら痛覚も無いのようなので、ボディに穴が開いていても気が付かずに走っていたりします。
彼らは、役に立つ「特別な仕事」が大好きです。
トップハム・ハット卿という管理者(人間)が居るのですが、彼は機関車たちの特性を理解していて、「役に立つ特別な仕事」を餌に、機関車たちを巧みに操ります。
そして彼らは、事あるごとに「役に立つ機関車」「特別な仕事」と口にしては、ハット卿の思惑通り健気に働いてくれます。
役に立つ仕事は機関車たちにとっての最高のご褒美なのです。
近未来SFとしてのトーマス
さて。
このトーマスたちの世界をヘビーローテで観せられているのですが、観るたびに違和感が拭えません。
彼ら機関車たちの行動は一見して人間っぽく見えるのですが、様々な欲を持つ私たち人間とは行動原理が違うので、ちょっとしたところの判断基準がずれます。
このズレが積み重なっていき、異質な生き物と相対しているという感じを醸し出しているのだと思います。
「機関車に顔がついておしゃべりする」という、おとぎ話のような見た目に捕らわれると、本質は見えてきません。
この物語の真の姿は、人工知能を搭載して、自律的に活動するアンドロイドやロボットの社会と人間たちとの関係について、シビアに描いたSF作品なのです。
ソドー島のアンドロイドたちは、非常にうまく設計されたAIを搭載しています。
そこには根源的な欲求として「みんなの役に立つ」という動機付けがしてあるのです。
陽気で純粋で適度にお馬鹿なセッティングのAIは、その緩い知能ゆえの騒動は起こすのですが、イデオロギー的な動機や、暴走した欲望によって人間を傷つけることは滅多にありません*1。
AIを人間に近づけようとすると、人間性が持つ厄介事も同時に抱え込むことになる*2のですが、「役に立つ機関車」という目標を与えることで上手く回避しているように思えます。
そして、ソドー島の人々もこの新しい友人たちと上手に付き合うことができていて、混成した社会を築くことに成功しています。
見事に去勢された人間性。
この、機能と感情のチグハグさをギリギリのところでバランスさせる際どさが、様々な身体的機能や欲求の未発達な幼児たちの感性にマッチするのかもしれません。
そんなわけで今日も僕は、息子と一緒に機関車トーマスを見るのでした。