自分は、バイク乗りだった。
今は降りてしまっているので、バイク乗りではない。
たとえ50ccであってもバイクに乗っていれば「バイク乗り」であるし、そうでなければ「向こう側」だ。
バイク乗りというのは、特に寒い冬の朝に長々とマシンを暖気していたりすると、「今日は帰れないかもしれないな」などと思うものだ。
それは、そういった漫画を読みすぎているせいもあるし、実際に色々危ない目にあって、死を身近に感じているせいもでもある。
バイク乗りというのは、非常に不器用な生き物で、死の恐怖や死んでいたかもしれない恐怖を目の当たりにしなければ、生を実感できないようなどうしようもないところを持ち合わせている。
常軌を逸したスピード狂と、日曜日のマイホームパパの間のどこか中間に位置する速度でバイクを操り、色々と危険を予測して走ってはいるのだが、それでも、不測の事態というのはどうしても起こるわけで、そういったときに一々「危ない、ブレーキ」などと考えていては、それこそ帰ってこれなくなる。
どうするかというと、常々イメージトレーニングをして、身体が自動的に反応するように仕込んでおく。
大袈裟ではなく、何か不測の事態が発生したのであれば、考える間もなく身体が動くように準備をしておくのだ。
私自身、そうやって何度も危機をギリギリのところで回避することができた。
あまりに訓練が行き届いていて、車に乗っていても急な飛び出しがあるとブレーキとクラッチを操作しようとして、ワイパーとウインカーを動作させてしまい、恥ずかしい思いをするぐらいだ*1。
典型的なところでは、車などが急に車線に飛び込んでくるわけだが、そんな時は瞬時に前輪がロックしない程度にブレーキを思いっきり握り、フロントをフルボトムさせる。リアは若干滑らせる。ギリギリまで制動を優先させ、避けられるかどうかの瀬戸際でブレーキをリリースし、フロントフォークが伸びきるまでの短い時間でタイヤのグリップを制動から旋回へジワリと振り分ける*2。
フロントの荷重が抜けた瞬間にホップするようにステップし、障害物をかわす。この間、1秒未満といったところ。
ちんたら考えていては、とても間に合わない。目に入った情報を直接脳の奥に流し込み身体を反応させる。ワンテンポ遅れて脳が現状を判断するが、神経は次の情報に従って自動的に継続的に滑らかに行動を継続しているので、理性からのフィードバックは、大まかなフレームワークの追認という形をとる。
自動であって自動でない。下手に大脳の介入を行えば指示系統が混乱し反応が遅れる可能性がある。それは死を意味する。
しかし、何も指示を与えないわけではない。事前のシミュレーション通りに事が進んでいるか、脳の介入を行うべきか、ギリギリの判断を行っているのだ。前線に対する後方支援のような。宇宙ロケットに対して地上の管制室のような関係が、自分の中の神経と脳の間で取り交わされるわけだ。
有事に際して最高のパフォーマンスを発揮するためには、バイクにまたがっている間、最高にリラックスしている必要がある。
下半身に過不足なく力を入れ、がっちり固定しつつ、上半身はしなだれるような優雅さで、ゆったりとリラックスした姿勢を保つ。
視点は、八方睨みで常に周りの情景に気を配しつつどこにも集中していない状態がベストだ。
極限まで張り詰めた状況下にあっても、まるで寝入る寸前のようなリラックスが求められる。
そうでなければ、神経がのびのびと仕事をしてくれない。
そんなわけでベテランのバイク乗りは、まるで踊るように滑るように流れを読むのによどみなくスムーズにそれでいてそれなりのスピードで車の渦を縫っていく。
肩に力が入らずリラックスしているので、楽に走っているように見えるがそうではない。
そうしなければ、帰ってこれないことを知っているだけなのだ。
こうして一日が過ぎ、棲み処に帰ってきたバイク乗りは思うのだ。
今日も帰ってこれたと。