仏教で言うところの「苦」とは、人生における苦しみを指しますが、正確にはもうちょっと守備範囲が広くて、"unsatisfactoriness" つまり「不満足」の事を指します。
人生は、不満足の連続です。
例え、美味しいものを食べたり、欲しいものを手に入れて一時的な満足を感じたとしても、それが永遠につづくことはなく、「また次」「そのまた次」と欲望は果てること無く続きます。
初期仏教では、この欲望の連鎖から解き放たれることを「解脱」とか「悟り」と言って、みんなそこを目指します。
そのためには、全ての執著(しゅうじゃく)から離れ、五感から得られる情報に色を付けずにありのままに捉え、かつそれらが無意味であることを知る必要があります。
こうして辿り着く境地を「涅槃」と呼びます。
このことを裏返すと、「涅槃」以外の世界は、欲にまみれ「苦」そのものという事になるのですが、「苦」とはつまり「依存」です。
マンガで分かる心療内科に依存症をテーマにしたシリーズがあるのですが、この辺のエピソードを見ると、依存症というのは「ここからが依存症ですよ」っていう「量」による境界線がない事がわかります。
そして、依存症の対象としても、酒タバコギャンブル麻薬などの有名な(?)ものから、ゲームやネット、買い物、盗癖虚言癖、DVやストーカー、過食や拒食など、多種多様に存在します。
それもそのはずで、「依存性」根本原因が「苦」であれば、この世に存在するもの全てが依存症の原因となりうるわけです。
もちろん、「この世の全て」に問題があるではなく、我々の認知の方に問題があります。
人が人として生まれた瞬間から、我々の本能が規定する行動原理は「好き」と「嫌い」です。
生まれたての赤ちゃんでも、何かに興味を持ち、好ましいと思うものに喜び、疎ましいものには拒否反応を起こします。
成長してくると、理性によって表面上は、直接的な欲を自制できるようになってきますが、脳が訴える根本的な行動原理は変わりようがありません。
我々は、生きている限り常に「依存性」の状態であるわけです。
つまりこういうことです。
- 仮定1: 「依存症」と「健常者」を分ける量的な境界線はない(少しでも依存症)
- 仮定2: この世の全てのものは依存症の原因になりうる
- 結論: 全ての人は常に依存症状態にある
恐ろしい結論になりました。
そして、この依存症状態から抜け出すためには、「死」か「解脱」しかありません*1。
とは言え、我々一般人にとって「解脱」は遠い世界の話なので*2、完全に依存症から抜け出すのは無理という事になります。
私たちは、依存症です。
慈悲はありません。
諦めましょう。
・・・。
とは言え、大概の人は、さして生活に支障もなく安穏と暮らしているわけですから、普通に暮らしている分には、過度に気にする必要はないです。安心です。
最終的に「だからどうした!」という話なのですが、依存症というのが対岸の火事ではなく、自分たちも何らかの形で発症している「今そこにある危機」だということを認識する必要があるということです。
そして、常に依存症の崖っぷちに立っているということを念頭に置いて、重度の依存症に陥らないように騙し騙しではありますが、この迷いの多い人生を生きていくしかないのです。つらいですね。
おしまい。