セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

マーブルワーズ

涅槃とは

ブッダの説く、仏教の最終到達地点は、涅槃と呼ばれます。

私たちは、涅槃に至ることで「至上の楽を得る」とされています。

涅槃は何処にあるのかというと、私たちの心の中にあります。

俗に言う「天国」のように、この世界もしくは平行世界の何処かにあって、歩いたり飛んだりワープしたりして到達できるような場所とは少し異なります。

私たちの心が、瞑想や功徳などの修業により変化していって、「とある状態」になったとき、それを「涅槃」と呼びます。

純粋に私たち個人の心の問題で、場所でも空間でもありませんし、ましてや超常的な「何か」ではありません。

であれば、「涅槃」とは、私たちの心のどのような状態なのでしょうか?

それは、心に全く主観が無く、「主観ゼロ」となる状態です。

普段、私たちは、自らの目でものを見て、耳で聞いて、心で考えます。それらは、全て私たちが持つ感覚器官を通しての出来事なので、自身の体験を元にした類推でしか物事を考えられないという宿命を背負います。

それはまるで、土偶の中に入り込んで、僅かな穴を通してしか外の世界の覗き見ることができない人のようです。

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土偶の穴は、限られていますので、どんなに目を凝らして見ても、耳を側立てても、得られる情報には限界があります。それは土偶の穴が大きくなっても、本質的には大して変わらず、たとえ土偶が無かったとしても、得られる情報に限りがあることには、変わりありません。

もちろん、僅かな穴を通して見た世界にも、「客観的」と思える現象は多々あります。

天体の運行や、数の関係性など、一見「客観的事実」のように見える出来事も、自身の目や耳を通らずには思考に達せず、思考によって理解しなければ、法則性も見いだせません。

これらは全て主観のなせる業です。

何処からか突然「絶対的な事実」が湧いてくるという事はありません。必ず、身体のセンサーを通して入ってきた情報が思考に影響することで、「事実」と思えるような「実感」が湧いているだけです。

これらは全て主観のなせる業です。

私たちは、主観から離れることはできません。これは「涅槃」であっても例外ではありません。

涅槃も私たちの主観の内にありますが、主観の内の何処にもありません。

主観の内にありながら、主観の影響を全く受けない、ゼロとなるポイントに涅槃はあります。

主観のゼロポイントこそが、涅槃の正体であり全てです。

そこには、何もなく、かつ全てがあります。

感覚を遮断するのでもなく、開放するのでもなく、精神を集中するのでも発散するのでもありません。

涅槃は、すべての矛盾を超越した先にあり、主観である思考の及ぶ先にあります。

中心であり、縁であり、全体であり、一点であるような心の状態です。

私たちの心が「涅槃」に在る時、全ての苦が消失し、至上の楽を得ます。

一度涅槃に在る体験をすると、一切の価値観が転換し、二度と苦しみの世界には戻りません。

それが、涅槃です。

最終到達地点には何もないのです。