宗教の重要な役割に「死後の世界の定義」があります。
人は、皆死を恐れ、救済を求めます。
そのため、厳密な死後の世界を定義し、現世での行いを規定することで、死後、自分がどうなるのかということをある程度予測させ、死の不安を低減させるという役割を宗教が担っているわけです。
また、死後の世界の存在を信じさせることによって、現世での行いにモラルを与えるという点でも役に立っているわけです*1。
もし、人が死んで無に帰すという事になれば、人によっては、刹那的に利己的な行動に走り、群れとしての集団行動に支障をきたす恐れがあります。
恐らく、人類や類人猿の仲間たちが、知性を身につけるのと時を同じくして、初期の宗教も発生したのだろうと思います。
知性や自我の副作用として、死の恐怖への対処という問題は避けられないことなのです。
ざっと調べた感じだと、メジャーどころの宗教では、死後の世界や輪廻転生、もしくは最後の審判と永遠の楽園を定義していない宗教は見当たらないようです。
初期仏教では、釈迦自身は、死後の世界や輪廻について何も語っていないそうですが、釈迦の死後、輪廻の定義や地獄や仏の概念が導入され、現在の仏教では、立派に死後の世界が定義されています。
死後の世界が必要なわけ
何故、死後の世界が必要なのでしょうか。
それは、我々が意識を持っていて、生死を認識する能力があるからです。
僕自身も、こうしてブログを書いているわけで、精神活動を行っており、意識が身体を支配しています。
意識は、継続的に自己の存在というものを認識しており、過去からの継続性を基準に未来を推測するという、あたりまえの思考をします。普通に考えれば、「未来にも自分自身が存在する」ということが当然の帰結となるわけですが、現実がそうではないことにギャップが生じるわけです。
人間は、日常的に死んでいます。
自分と同族の生命体であるところの「人」の死に直面し、自身の精神活動の継続性が「いつか失われる」という事を認識するわけです。
継続性から類推される未来と、他の事例から類推される死。この2つの事象の大きな矛盾に悩むわけです。
なんてことを今更説明しなくても良いかもしれませんが、誰もが持つ死の恐怖です。
自身が永遠に失われることの恐怖。
この恐怖と苦しみを少しでも緩和するために、説得力のある「死後の世界」の定義が必要とされるわけです。
では、我々の死の恐怖を緩和するためには、どのように死後の世界をデザインしたら良いでしょうか?
なるべく説得力があって、「これならいつ死んでも安心」と思えるようなモデルが良いですね。もしくは、より良い死を迎えるためにみんなが努力できるような定義が良いかもしれません。
なんにせよ、より深く信じることができて、万人に安心感を与えてくれる「死のモデル」が、優秀な死後の世界のデザインと言えるでしょう。
最後の審判
キリスト教と類似の宗教では、「最後の審判」を定義しています。
その日になると、それまでの累積された死者は復活し、裁きがくだされ、永遠の命を与えられるものと地獄行きに分類されます。
その後、永遠の命を与えられたものは、理想の世界に生きることになります。
細かい所で違いがあるようですが、死者が蘇り審判を受けるという大筋は変わらないみたいなので、これを「最後の審判モデル」と呼びます。
輪廻
インドの土着の宗教や、仏教、ヒンドゥー教などは、死後別の生命として生まれ変わる「輪廻」を死後の世界のモデルの基本に据えています。
死後、すぐに生まれ変わり先が決まります。
何に生まれ変わるかは、生前どのような行いをしてきたかによって決まります。
幾多の生まれ変わりを経て「もういいよ」となると、すごろくのあがりのように旅を終えることができ、これを「解脱」といいます。
初期仏教では、解脱は消滅を指しますが、その後天国に行くというモデルに変化します。
やはり、遠い未来の話でも「消滅」と言うのは恐ろしいようです。
輪廻の考え方では仏教よりも源流に近いヒンドゥー教では、輪廻は永遠に続き、天国や地獄の考え方は無いようです。
ですが、大雑把に言って、輪廻を繰り返して天国に至るというモデルを「輪廻モデル」とします。
あの世
日本の神道や古代エジプトの風習では、シンプルに死後、裁判を受け天国と地獄に振り分けられます。
恐らく、多くの名も知らない土着の宗教がこのモデルを暗黙的、もしくは明示的に採用しているものと思われます。
これを「あの世モデル」とします。
一番単純に考えると「死後に何らかの世界があって、普通に罪なく生きていれば楽園に行けるよ」という考え方は、死後の安心感を与えることと、生前のモラルハザードを抑えるという2つの大きなメリットがあるため、主要な宗教の死後モデルには、必ず導入されているようです。
永遠の命
死後の世界とは離れますが、時の権力者によってしばしば探求された「永遠の命」というものもあります。
死ななければ、死後の世界を憂うこともないわけですから、単純な話です。
権力者にとっては、この世が楽園なわけですから、永遠にこの世界が続けば良いと思うのでしょう。
残念ながら、この試みが成功したという話は聞いたことがありません。
これを「永遠の命」モデルとします。
各モデルの考察
まず、最後の審判モデルと輪廻モデルは、天国や地獄への仕分けまでの間に猶予期間を設けているという点において、あの世モデルより、複雑なモデルになっています。
死後、すぐに見知らぬ土地に行くというモデルよりも、より深い安心を与えることが出来るのでしょうか?これらのモデルを採用する宗教は、世界的に成功していて、この2つのモデルだけで、世界人口の7割ほどを占めます。(Wikipedia 宗教)
人類というのは高度な知性を持つ生命体の集合なので、あまりに単純なモデルだと、「本当にそうなるの?怪しくない?」と訝しがる人が出てくるのかもしれません。
最後の審判モデルでは、死後、いつともしれない「最後の審判の日」まで、扱いが保留されます。少なくとも現世の人間にとっては、最後の審判の日は遠い未来の話なので、ここで一段目の永遠が得られます。更にその後、上手く審判を切り抜ければ、本格的な安楽が得られるという二段構造になっていて、より深い安心感を提供しています。
同じく輪廻モデルも、輪廻自体が、ほぼ永遠ともいえる時を様々な姿に生まれ変わりながら過ごすわけです。しかも、この場合は審判にかけられることもなく、途中地獄に落ちることがあっても、いつかは天国へ到達するという安心感があります。
あの世モデルも、シンプルな分、説得力に欠ける部分がありますが、天国と地獄という最終的な目的地を設定しています。
いずれも「楽園」や「天国」や「約束の地」など、呼び名は様々ですが、非常に過ごしやすい世界で永遠の命を得るというゴールが究極の目的となっています。
権力者が求める、現世での永遠の命を得るモデルも「過ごしやすい世界で永遠に過ごす」という意味では、他のモデルの究極のゴールと目指すところは一緒だといえます。
こうなってくると、死後の世界のモデルというのは、案外シンプルで、最終的には「天国での永遠」をゴールとして設定し、そこまでの道程に、一時的な保留状態を挟むかどうかというギミックに多少違いがある程度の差でしかありません。
死後の世界を構成する要素を分解して整理すると、次の2つの事柄しかありません。
- 永遠に続く世界
- 究極的に安楽な世界
実にシンプルですね。
これらの要素は、本当に我々を死の恐怖から解放することが出来るのでしょうか?
永遠を厳密に定義する
まず、永遠の命についてです。
我々の暮らしている宇宙は、誕生してから、およそ138億年経っています。
これは、人間の寿命からすると、永遠とも言える長い期間ですが、永遠ではありません。
宇宙誕生から、10の-32乗秒ほどで、特殊な物理現象が起きていた時代を終え、それ以降は殆ど我々の生活している時間と空間と同じ世界で、ただ単に約138億年分の時間が流れているに過ぎません。
「永遠の命」と一言に言いますが、一体何年ぐらい続くのでしょうか?
少なくとも1000年や2000年ぐらい?
ここで注意したいのが、自分たちが1000年過ごすということは、少なくとも1000年以内に亡くなった人もしくは生物たちも、その世界に存在するろうということです。
そして、私達が死んでから1000年間どこかの世界に存在するということは、1000年後の誰か(もしくは生物)も、その世界に新参者としてやってくる事になります。
1000年前であれば、日本ならば平安時代で紫式部や清少納言と会えるかもしれません。世界であれば、十字軍が開始された時期となります。1000年後となると、その頃人類は、星間移動しているかもしれませんね。何らかの理由で絶滅している可能性だってあります。
運が良ければ、あなたの子孫が生き残っているかもしれません。
でも、きっとその時代の人達にとって、我々世代の霊魂なんてどうでもよい話です。私達が、西暦1000年の霊魂の事を身近に感じられないように、彼らにとっても我々は身近な存在とは言い難いでしょう。
「最後の審判の日」モデルであれば、キリスト誕生や、その前に死んだ人達ともその日に再会することになりますね。一緒に天国に行ったら、どんな会話を交わすのでしょうか?それもまた楽しいかもしれません。
せっかく永遠の楽園なんですから、20万年ぐらい過ごすのはどうでしょう?
丁度、新人類が生まれた時代から現代までの時間を過ごすわけです。
新人類ですから、身体機能や脳の機能は我々と変わりません。
最初期の新人類も、天国に行った人達は、同じように永遠の世界にいるわけですから、我々の遠いご先祖に会えるかもしれません。文化や風習はちょっと違うでしょうが、きっと上手くやっていけるでしょう。
もしかして、1000万年ぐらいは過ごしたいと思っていますか?
誤差はあるかもしれませんが、1000万年前といえば、類人猿が誕生する頃です。彼らの知能は、我々新人類よりは多少劣るかもしれませんが、ある程度の知恵と文化を備えた者たちもいたはずです。彼らも同じように永遠の地に導かれているとすると、そんな彼らとも再会できることになります。
文化風習は、だいぶ違いますし、言葉を交わせるかどうかも怪しいですが、きっと上手くやっていけるはずです。なんせ、永遠の楽園なんですから。
色々、ケチケチ行ってきましたが、1億年ぐらいは生きてみたいですよね。やっぱり。
すると、恐竜の時代になります。恐竜の魂は、天国に行ったのでしょうか?
我々の魂が、1億年を過ごすと、恐竜にとっての我々のように、得体の知れない新しい生命が、その頃の地上を我が物顔で闊歩していることでしょう。
その魂たちも、死んだら我々の過ごす永遠の世界にやってくるかもしれませんね。まさに未知との遭遇です。色々、風習も違うでしょうし、エキサイティングな日々が待っているかもしれませんが、ちょうど退屈している頃かもしれません。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者どんと来いです。上手くやっていきましょう。
我々の興味はまだまだ尽きません。20億年ぐらいは過ごしましょう。
すると、ある時からパッタリを新参者が途絶えます。
なんとこちらの世界では、太陽が膨張を始め、地球はそれに飲み込まれる形で消滅してしまいました。
人類は、恒星間移動をして生き延びているでしょうか?
そもそも、天国というのは、誰にとっての世界なのでしょうか?
宇宙生命全体の合同大同窓会会場なのだとすると、既に滅亡した天体を含め、色々な銀河で生きる生命体で溢れかえっているのかもしれません。
これでもまだ、宇宙誕生まで遡る138億年には遠く及びません。
永遠と言うからには、1兆年や1京年という単位を楽園で過ごすのかもしれません。
しかし、果たしてそれが幸せな死後の世界といえるのでしょうか?
永遠に生きることが、私達にとっての本当の幸せを運んできてくれるのでしょうか。
一時的に死や消滅の恐怖を追いやったとしても、永久に逃れるすべなんてないのです。
永遠なんてものは、思ったより良いものじゃないのです。
また、永遠という尺度で考えると、生命とは何か?宇宙とは何か?という疑問にもぶつかります。
主要な宗教が天国の住人として対象にしているのは、主に「人間」ですが、人類の種としての寿命も、永遠の尺度から見れば一瞬です。
天体や宇宙全体の寿命だって、たいした時間ではないのです。
様々な生命の種や太陽系や銀河を超えても破綻しないような「永遠のモデル」を作れなければ、理想の死のモデルなんて及びもつかないでしょう。
この問題は、我々の死の定義に重くのしかかってくるのです。
とはいえ、すぐには解決しそうにないので、いったん置いておきます。
永遠の定義に多少の問題があるとしても、何にせよ、永遠の時を過ごすのでから、そこが理想の楽園でなければ苦痛あるのみです。
ほんの些細な不満でも、永遠に我慢し続けることになるというのは、苦痛でしか無いからです。
例えば、最近僕のアパートの換気扇が風に煽られてバタバタうるさいのですが、これが永遠に続いたらと思うと発狂します。
そういう意味では、永遠の世界というのは、理想の楽園とセットになって初めて意味を持つと言えるでしょう。
次は、楽園の定義をしてみます。
楽園を厳密に定義する
楽園というのは、安楽に暮らせる世界です。
誰もが、幸せに暮らせる世界というものが、定義できるでしょうか?
我々が住むこの世界では、争いが絶えません。
国家間や、民族間、部族間、身分や階層間、男女間、家族間、あらゆる人々の間で様々な種類の争いごとが発生します。
これらの争いごとは、人々の主義主張や利害関係の食い違いが原因となり、お互いの距離が近いほど些細な問題で軋轢が生じ、遠い者たちの争いでは、お互いに冷酷な手段を取ることを厭わなくなります。
誰かの主張が通れば、他の誰かの主張は通らないという相反関係にある利害が多々あり、日々争いの種を世界中にばらまき続けています。
そうなると「楽園」とは、誰のための楽園なのでしょうか?
人と人が交流すれば、必ずぶつかりあう利害が出てしまいます。
極端な例として、誰かが「酒池肉林」を求めたとします。本人にとっては極楽かもしれませんが、肉林を提供する側にとっては、楽園とはいえません。
せっかく、最後の審判をくぐり抜けて楽園に到達したとしても、あなたは「肉」の役目かもしれないのです。
誰も虐げられず、すべての人にとっての楽園が同時に実現させようとする場合、2つの方法が考えられます。
一つは、その世界の住民からは、お互いにぶつかりあうような感情や意思をすべて取り去ってしまうことです。
お互いが相手に無関心で、主張も要求もしなければ、ぶつかりあうことは無いでしょう。精神安定剤を大量に投与された患者のように、穏やかに微笑みを絶やさず、永遠の時を過ごすわけです。
それが本来の自分と言えるのか?
(皮肉なことに)魂の抜け殻のような状態になって、永遠の時を過ごす意味があるのか?
という疑問がもたげますが、少なくとも争いごとからは解放されます。
もう一つのプランでは、あなたは楽園と呼ばれる場所で、好き放題に傍若無人に振る舞うことができます。
ただしその場合、あなたによって害を受ける人や生物は、楽園の住人ではないということになります。
人と人との接触が、必ず何らかの衝突を生むのであれば「あなた以外の楽園の住人とは会えない」と考えるのが自然です。あなたの相手をする人や物や生き物は、(これまた皮肉なことに)魂を持ち合わせないハリボテになります。もちろん、神様がすぐに気づかれるようなヘマをやらかすわけがないので、非常に精巧で見分けの付かないハリボテになるわけです。
このタイプの理想の楽園において我々は孤独です。
一方的に自分の主張を受け入れてくれる、精巧なロボットに囲まれた世界の王様になり、永遠を過ごすわけです。
見分けることができない精巧なロボットの彼らと自分とを分けるものは何なのでしょうか?
自分だけが自我があり、本物だと言い切れる根拠は何でしょうか?
自我とは何なのでしょうか?
我々は、本当に存在しているのでしょうか?
と言うような、疑問に苛まれそうな世界ですが、ともかくその世界では、我々は好きなことができます。
争いごとから解放され、完全な自由を手に入れて、永遠の時間をロボットの王国で過ごすわけです。
スポイルされた無味無臭の世界か、瓦礫の山の裸の王様か。
何れにせよ、厳密に理想の楽園を定義することは、自分の存在を否定するのと同義です。
スポイルされた世界では、自我なんて崩壊していますし、瓦礫の山では、自分だけが自我を持つことの意味がありません。
どうやら、理想の楽園で暮らすのは楽ではないようです。
我々の魂は救われるのか?
結論としては、どうやら楽園や永遠の世界は、我々の魂を救わないみたいです。
軽く絶望しますが、仕方がありません。
今いる世界を精一杯に生きるしかありません。
所詮、自分自身の命や自我なんてものは、無に帰す定めのものなのです。
人は、精神活動も含め、物質で成り立っています。
死ねば無に帰すし、心もいつかは滅びます。
世界や宇宙という存在は、人間の一生と比べると無限に思える長さがありますが、有限です。
無限とも思える有限と、一瞬の我が身。
この事に恐怖を覚え、逃れようとして、様々な宗教や精神世界を作り出してきました。
しかし、逃れることはできないのです。
宇宙が無限に近い有限であり、永遠も楽園も定義が破綻しています。
輪廻も精神世界も最終的には意味をなしません。
まず、これらのことを前提として受け入れる必要があります。
消え行く我が身を受け入れるということは、自暴自棄になり、刹那を生きればよいということかというと、否、それは違います。
人生が自分だけのもので、死を以って真の無に帰すと知ったからといって、己の欲を満たすだけ行動は、自身を決して幸せにはしません。
これは欲を受け入れる側の問題で、即物的な欲を満たしたとしても、そこから得られる満足は、空虚で浅薄です。
あまりに小さな満足しか得られないために、次々と欲を求め、餓鬼道に堕ちます。
物や金では、幸せになれないのです。
人は、古来より群れを作り、集団で生活してきた生き物です。
本能的に、群れへの貢献に対して、大きな満足を得る仕組みが備わっています。
このことは、良く言えば、他者のため、義によってのみ生きられるということです。
これは生物としての本能によって定められた生き方の規範でり、幸福への道標となるものです。
これに乗っからない手はありません。
人は、大義を掲げて、信念を持ち、無心に事にあたることにより、より豊かな人生を送ることが出来ます。
お釈迦様の言うところの涅槃の境地ということになりますが、世を捨て、人と離れて修行しても、涅槃には辿り着くことはできません。
積極的に人々に接し、働きかけ、人類の発展に身を捧げてこそ、静かで満たされた心を手に入れることができるのです。
自身と大義とを一体化させ、私心の占める割合を無視できるほどに小さくしていくことが、境地に至る道です。
そこへ至る道、そしてそれを目指す道程こそが、人が生きる道なのです。
おわりに
今年「不惑」という抱負を立て「迷いをなくすためにはどうすればよいのか?」ということを考えていました。
本当のところは、最後の結論だけを書きたかったのですが、そのためには、前提として「輪廻や精神世界が無意味であること」を説明しないと、うまく書けないため、とても長くなってしまいました。
話の流れ上、神様や死後の世界を否定するような書き方になっていますが、そういうわけではありません。
死後の世界は、存在するかもしれませんが、存在の有無にかかわらず無意味です。
神様は、この世界に働きかけるような場所には存在しておらず、この世界のすべてを含む集合の冪集合のような、あらゆる系に存在する、その集合の中では、定義できない集合(いわゆるラッセルのパラドックスです)の外側のような世界にいる(そしてまさに人知を超える、想像することすら許されない偉大な存在である)と信じています。
その話も長くなりそうなので、今日のところはこれにて。
*1:まあ、それが行き過ぎると死を恐れぬ兵士達が自爆テロに勤しむ世界が出来上がるので、何事も程々が良いのではないかと思います