セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

あなたは、自分が「客観的」だと思いますか?

Q. あなたは、自分が「客観的」だと思いますか?

突然質問で始まりましたが、前回のエントリーの後半が、主観と客観の話になりましたので、今回は、「客観性」についての考察を書きたいと思います。冒頭の質問に関しても、ある程度の回答になると思います。

日常会話でも「客観的に見ると」とか「客観性をもって判断する」など、様々な場面で「客観」という概念が登場します。

僕もそうですが、人というのは、自分自身のことをそれなりに客観的だと感じて生きています。しかし、その「客観とは一体何なのか?」と問われると、すぐには答えられないのではないでしょうか。

そこで、少しだけ、客観性について考えてみたいと思います。

役に立つが間違っている回答

「客観性」を辞書で調べると、以下のようにあります。

きゃっかん‐せい〔キヤククワン‐〕【客観性】

客観的であること。だれもがそうだと納得できる、そのものの性質。「客観性に欠ける論評」⇔主観性。

デジタル大辞泉より

「だれもがそうだと納得できる」とありますが、この世のすべての人が納得するような「絶対的な価値観」というものは存在しませんので、客観性というのは相対的に判断するべき事柄です。

そう踏まえた上でも、より多くの状況を上手に説明できる理論のほうが、客観的であるという定義は、自然に「客観性」について表しているように思えます。

例えば、ニュートン力学よりも相対性理論や量子力学のほうが、より多くのケースで物体の運動を正確に予想することが出来るため、より客観的であるということになります。

数学や物理学など科学分野では、論説の客観性が強く問われることが多いので、ほとんどの人を納得させるのに十分に客観的といえます。

一方で、「AIが発達すると人間の仕事が奪われて失業者が増える」とか「今年中にアメリカと北朝鮮は戦争になる」など、社会や世界情勢に関わる言説というのは、客観性の評価が難しい事柄です。様々に人にとって、様々な意見があり、より多くの人を納得させることが出来る言説をもって「客観的である」と言い切ってしまうのも、なにやら違う気がします。

数を数えれば良いのであれば、マクドナルドとコカコーラは、世界で一番評価されている客観的な食べ物や飲み物ということになるでしょうし、ドナルド・トランプ氏は現在のアメリカ大統領に最もふさわしい人物ということになります*1

ともあれ、人がより客観的であるためには、多くの人を納得させる必要があるということは間違い無さそうです。少なくとも、その言説を支持する人にとって納得の行く説明である必要があります。

正しいけど役に立たない回答

さて、もったいぶった言い回しをしてきましたが、「だれもがそうだと納得できる、そのものの性質(デジタル大辞泉)」によって客観性を定義するのは無理があります。

客観性についての際どい事例を挙げていくことは、いくらでもできるからです。

ここらで、一つの事実をハッキリさせなければなりません。

それは、「客観性が存在しない」ということです。

残念ながら、人が真の意味での客観性を得ることはできません。

以前に、「正義は存在しない」ということをこちらのエントリーで書きました。

qtamaki.hatenablog.com

ここでは、幾つかの事例を取り上げ、それらが存在しないと言える理由を並べています。

「正義」が存在しなければ、「自由」も存在しません。そして、「客観性」も同様となります。

これらの事柄は、根っこが同じだからです。

私たちは、複雑な脳神経に備わった「自我」によって外部の状況を判断して行動していますが、どのような判断も自我によってなされる以上、すべて主観的であると言わざるを得ません。

また、人というのは、思考を司る脳神経に、外部からの信号を各種センサー(目鼻舌など)を通して取り込むことで、世界の状況を感知しています。

自分が受け取ってきた刺激以上の情報を得たことは一度だってありませんし、この先も同じです。

私たちは、ほとんど何も知らないのです。世界のごく一部をサンプリングしているに過ぎません。

外界に存在する全ての事象の持つ情報量と比べると、圧倒的な差があります。

このちっぽけな身体で、数十年しか存在し得ない私たちの意識は、一体どれだけの事を知り得るというのでしょうか?

その上、私たちが「知っている」と思っている事柄のほとんどは、実際に知っているのではなく、伝聞であったり、他の「知っていること」を組み合わせて重ね合わせた類推にすぎません。

そしてそれは、ある時には私たちの世界をうまく再現することが出来るかもしれませんが、ほとんどの場合において、類推とは違ったことが起こり、私たちにストレスを与える原因となります。

主観と世界は必ずズレるのです。

これらのことは、私たちに課せられた宿命といえます。

主観=苦悩であるわけ

私たちは、激しく「主観的」であるわけですが、主観的であるということが、どうして苦悩へとつながっていくのでしょうか?

主観的に見る世界は、自分に都合の良いように解釈された、事実とは異なる世界です。そこには、必ず、現実世界とのギャップが存在します。

自己の世界観と現実の世界との間にギャップがあるということは、世界が「ままならない」ということにほかなりません。それは即ち、私たちの苦悩の原因となります。

「もっとお金があれば」

「働きたくないでござる」

「もう少し若ければ」

「もし私が美少女だったら」

「病気じゃなければ」

主観と現実との乖離が大きければ大きいほど、苦悩も大きくなるということは、容易に見て取れると思います。

求めるものが手に入らなかったり、嫌だと思っているものに触れなければならなかったりすることが、どうして起こるのでしょうか?

世界を望むままに変えることはできません。私たちが世界に対して働きかけられることはそれほど多くないからです。

世界に対して、私たちはちっぽけすぎるのです。

私たちの望みは常に裏切られ続けることになります。

そもそも、何を望むのでしょうか?老いない身体でしょうか?無限の富でしょうか?それらの物が手に入ったとして、本当にあなたは幸せになるのでしょうか?

1億年ほど生きて、その間に欲しいものはなんでも手に入り、人々があなたの意のままに動いて、時には友だちになり、教師になり、母になりすれば、「ああ満足した」といって心置きなく死んでいけるのでしょうか?

9999万9999年目のあなたは、果たして幸せでしょうか?

残念ながら、欲を満たすことによって幸せになるという方法論では、現実世界とのギャップを埋めることはできません。

尽きない欲望は、ますます世界とのギャップを広げるばかりです。

ままならない世界で生きていくには?

私たちの苦悩を生み出しているのは、「主観」です。

私たちは、どうやっても客観的にはなれません。私たちが体験する出来事は、全て私たちのセンサーを通した主観的な情報に起因しているからです。

この身体を抜け出すことも、投げ出すこともできないのです。

それでは、どうやって苦悩から逃れればよいのでしょうか?

苦悩の原因が主観と現実世界とのギャップなのであれば、ギャップを少なくしていくことで、苦悩も少なくできそうです。

主観を小さくする

苦悩が主観から生まれるのであれば、そこから逃れるためには、主観を小さくしていくしか方法がありません。

しかし、どうやって主観を小さくしていったらよいのでしょうか?

それには、世界の様子をできるだけ正確に知る必要があります。

私たちと世界とを繋いでいるものは、この小さな体に備わった、か細いセンサーだけですので、それらを最大限に利用します。

つまり、リラックスした状態で、センサーから入ってくる情報を「ありのままに」受け取るように努めることで、情報の取りこぼしを防ごうというわけです。

先入観や思考のフィルターを差し挟む余裕はありません。

情報を情報として、刺激を刺激として受け取ることで、世界と自分との垣根を限りなく薄くしていきます。

そうすれば、主観はどんどん弱まり、現実世界とのギャップは小さくなります。

苦悩を生み出している原因が小さくなるということです。

そうして、世界との境界を取っ払って直接接続される状態、つまり主観がゼロとなり、ギャップがゼロとなる状態になれば、苦悩もゼロになります。

逆に言えば、真の客観性というものが幻想である以上、苦悩から解き放たれるには、主観をゼロにするしか方法がないということでもあります。

ゴールがゼロであることの意味

目指す所が「ゼロ」であるということ自体、着目する価値があります。

つまり、ゴールが1万とか100万とかいう数値であれば、1億とか1兆ならもっと凄いのか?という話になり、キリがありませんが、ゼロとなるとそれ以外のゴールを設置することは不可能です。

ゼロよりマイナス100万のほうが凄い!なんて事はないですよね?

ゴールがゼロである以上、数値を競い合うパワーゲームにはなりえないのです。

光速が「秒速30万km」と捉えると、なぜそれが速度の限界なのかが理解しにくいのですが、「質量ゼロの物質が移動する速度」と捉えると、それ以上がありえないということが実感出来ると思います*2

ゴールはシンプルです。

主観ゼロ。

そこを目指せば良いのです。

そこはこの世界の境界線でもあります。

*1:これらの事柄が客観的なのか主観的なのか、正しいのか間違っているのかについては僕にはよくわかりません

*2:光速を超えるためには質量がマイナスである必要がある。といわれるのはこのためです