Kindleの書籍も増えてきた。
殆どが、99円セールで買ったものや、0円だったり、今回のKindle unlimitedで入手したものだが、正規の値段を払って買った本もチラホラある。
すぐに辞書を引ける手軽さから、洋書も何冊か買ってみた。
電子書籍という文化に親しんでみて改めて思うのだが、読書体験を根本的に変わってしまった気がする。
言うなれば、乱読とか積ん読なんていう言葉を超えた、読書体験の発散だ。
人は、選択肢が多すぎると選択できなくなる。
"選択のパラドックス"と呼ばれているらしい。
これまでの古い読書
私の読書体験は、もちろん紙の本から始まる。
石版やパピルスではなかったし、電子書籍でもなかった。
宿題で出された課題図書を読んだり、図書室で江戸川乱歩を借りたり、家にあった本を端から読んでみたりしていたが、総じて人より多くの本を読んだわけでも、全く読まなかったわけでもないと思う。
思春期になり、今で言うライトノベル(当時はそんな名前はなかったけど)に当たると思われる、角川スニーカー文庫や富士見ドラゴンブックなんかを読んでいた。
現在の職業(システム屋)になってからは、技術書ばかり読んでいるが、基本的に「1度に読む本は1冊」という約束を自分自身に課し、それを守ってきた。
特に、大人になってからは、経済的には複数の本を何冊でも買うことができる。
しかし、それでは本の内容が発散してしまい、頭に入ってこないと思い、意識して未読の本が1冊のみとなるようにコントロールしていた。
すると、「この一冊を読めば次の本が読める」という完読のご褒美が与えられることになり、読書のモチベーションも上がった。
一冊に集中することで、本から得られる知識や体験というようなものを深くすることができる気がしていた。
これからの時代の読書
今、Kindle上にある本は、ほとんど読んでいない。全くページを開きもせず、ダウンロードすらしていない本も多い。
Kindle unlimitedを利用するということは、更に状況を発散方向に進めることだと思う。
読書に対して支払う代償のうち、一番高価なものは時間だ。
映画や漫画と比べて、小説や技術書といった活字の本は、圧倒的に時間を必要とする。その分、見返りも大きいと思っているが、読書から十分は利益を得るためには、読んでいる本に集中する必要がある。
飛ばし飛ばし、とっかえひっかえ読んでも、本の内容が腹落ちせず、結局は時間を無駄にする事になる。
しかし、今後の流れで言うと、読書体験の電子化、クラウド化は避けられないだろう。
出版そのものも形を変えていこうとしており、旧来の出版社というものも今後は淘汰されていく定めだ。
紙の本が持つ、読書に対する「重み付け」を失った時、出版や読書というのは、どういう変化を見せるのだろうか。
人類の知性は、どういった変化をするのだろうか。
知識の伝達物質としての本
本というのは、知性の継承だ。
文字や紙が発明され、世代を超えた知識の継承が可能になった。
活版印刷の登場によりそれは加速され、本を書き出版するという文化が生まれた。
1冊の本を書くのに、どのぐらいの労力が必要だろうか?
人にもよるし、本の内容にもよると思うが、著者が一生を掛けて研究してきた成果がまとめられたものも無数に存在する。
我々は、労せずしてその叡智を受け継ぐことができるという意味で、それまでのどんな人類よりも知識を蓄えているのだろう。
今後、本が物理的な制約から離れ、デジタル化することで人類の知性は進化するのだろうか?
時間が有限である以上、インプットの量は限られる。
そして、本による知識の継承は、その中でも受け取りに時間のかかるものの一つだ。
出版される本の数は年々増えており、デジタル化されることで、爆発的に増加することは想像に難くない。
しかし、いくら大量に本を作ったとしても、受け取り側にもキャパがあり、それは簡単には増えない事を考えると、良書が埋もれてしまう可能性も否定出来ないだろう。
キュレーションやモデレーションによって、効率よく良書を抽出する仕組みがあるにせよ、出版社や著者が悪書との競争に勝ち続けることができないかもしれない。
そして、受け取り側の我々は、様々種類の大量の本に囲まれて気もそぞろときている。
これでは、今まではうまく行っていた知識のリレーが、今後もうまく機能し続けると言い切れる自信がない。
そんなことを考えてしまった。