セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

矛盾を受け入れる

世の中は、矛盾齟齬ダブルスタンダードといった事象で満ちています。

今日言いたいことを一言で言うと、「矛盾に目くじらを立てるのをやめるとハッピーになれるよ!」です。

それでは行ってみたいと思います。

矛盾とは何か?

そもそも矛盾とは何でしょう?

元々は故事成語で、中国の昔の人が「この矛はなんでも貫くよ」といって矛を売り、「この盾はどんな矛でも貫けないよ」といって盾を売っていたので「じゃあ、その矛で盾を貫こうとするとどうなるの?」と質問したら答えに窮した。という出来事に由来していると言われています。

なので、厳密に言うと「お互いに相反することを言う」ことが「矛盾」となると思いますが、現在では拡大解釈されており、単純に話しが噛み合わない「齟齬」や時と場合によって条件が変わる「タブルスタンダート」なんかも、一絡げに「矛盾」と言われています(なので、以降これらの用語を「矛盾」に統一します)。

人は、論理的な思考を持っていますので、人の話や文章なんかに矛盾を発見すると、多かれ少なかれ不快な気持ちになります。

「これは是非とも正さなければ」という感情がわきますし、自分自身の思考や言説にも矛盾がないことを目指したりします。

そのため、一般的には「矛盾=悪」であり、「その話は矛盾しているよ」というのは、不正を正すという意味が込められます。

論説に矛盾が生じていれば、どんなに素晴らしい内容でも一瞬にして「無価値」と判断されることも珍しくありません。

矛盾は本当に悪か?

さて、このようにとかく悪者にされがちな矛盾ですが、「いらない子」として排除することが本当に正しいことでしょうか?

無矛盾であることが、即ち正義であり幸せなのでしょうか?

実は、矛盾と上手く付き合っていくことが、トータルで見た時の人生の価値をより豊かにしてくれるということは無いでしょうか?

人は、無意識の内に矛盾を避けようとする傾向があります。

優秀なセールスマンは、この性質を利用して、「イエス」を引き出すというテクニックを使うといいます。

人は、質問に対して「イエス」と答え続けると、自身の整合性を保とうとする意識が働き、多少無理な質問でも「イエス」と答えやすくなるそうです。

セールスマンや販売員と話している内に「引くに引けない」感じがして思わず買ってしまった。という経験がある人もいるのではないでしょうか(かくいう僕が、そのひとりです)。

この「引くに引けない」感じは、自身の矛盾に対しての防衛反応が原因かもしれません。

自己の一貫性というのは、「多少の犠牲を払ってでも保ちたい」と思えるものなのかもしれません。

また、ダブルスタンダードについても、同じようなことがいえます。

ダブルスタンダードと言えば、中国政府ですが(失礼)、「時と場合に応じた最適の対応をする」というロジックに基づいて動いており、その点においては矛盾していません。

例えば、2012年に中国国内で起きた反日デモについて「責任は全て日本側にある」と突っぱね、デモによる被害についても何の対応もしていません。それに対して、2014年にベトナムで起きた反中デモに対しては「避けることのできない責任を負っている」とベトナム政府を非難しています。

一貫性を評価基準とするのであれば、大きな矛盾を抱えるわけですが、中国にとって都合の良い対応を取ったという点においては、全く問題ない対応となりますし、それに対するペナルティはほぼ皆無ですので、トータルでの利益は大きかったと言えます(日本人の対中感情が大分悪化しましたが、中国にとっては微々たる影響でしょう)。

つまり、自己の発言に対して「どの程度厳密に無矛盾を求めるのか?」という問題に対して、一本調子に「無矛盾」を目指すだけでは、やや熟慮に足りないのではないか。ということです。

無矛盾であろうとするがために、思考が硬直化し、自分自身をがんじがらめにしてしまうのであれば、本末が逆と言わざるを得ません。

矛盾に対するペナルティというのも「自身に対する不満足」を除けば、気にしなくて良い程度のものかもしれません。

ある程度、矛盾におおらかになることと、矛盾を含んだ状況全体を見渡して、最適と思われる選択肢を選ぶようにする事で、自由で柔軟な判断ができるようになりますので、メリットが大きいといえます。

(大事なことですが、カッコ書きで書きます。僕自身、このことに気づいた時、「自分自身から解放された」気がしました。無矛盾でいようとする心の働きは、自分でもびっくりするほど、自分自身を縛り付けているものです)

他者の矛盾に対してはどうか?

他者の矛盾に対してもおおらかであるべきだと思います。

そもそも、この世は矛盾に満ちていて、論理の整合性なんてものは、各所で破綻しています。

なんせ、基礎物理の世界でも相対性理論と量子力学の整合性が取れず、大統一理論に向けて世界中の物理学者が頭を悩ませていますし、数学においてもラッセルのパラドックスなど、矛盾があちこちに転がっており、整合性の取れた世界とは無縁のように見えます。

このような世界において、無矛盾であろうとすることは、聖杯を求めるのに等しい行為です。

理屈や言説というのは、矛盾に満たされた器の中に浮いているひとかけらの氷のようなもので、やっと構築された理論であっても、元を質せばただの水であり、儚くも溶けかかっているのです。

であれば重要なのは、無矛盾を目指すことではなく、価値を見出すことでしょう。

「昨日と今日とで言っていることが違う」としても、それはその人の変化や成長を表すのかもしれません。

ダブルスタンダードな対応を目にしたとしても、それはその人の立場や思想をありありと映す鏡として使えるかもしれません。

同じ事象に対して、AさんBさんで、言っていることに齟齬が生じていたとして、そのことがどのぐらい重要でしょうか?

急いで答えを求めないのであれば、両方の意見を参考にして、結論自体は遅延させることも出来ます。

つまり、「これはAとB、両方の可能性がある」として中身は封印してしまうのです。

答えが明らかにならなかったとしても、役に立つことは結構あります。

二人の意見の共通項を見つけることや、「Aさん(Bさん)はなんでこういう答えを出したのだろう?」と考察することは、問題自体の答えを知らなくても状況を改善するのに十分効果的かもしれません(というか、そういうことはよくあります)。

大事なのは、矛盾と対峙することではなく、矛盾を受け入れてでも考えを先に進めることではないでしょうか。

一つ一つの問題をその場で解決できない分、可能性のレパートリーが増大し、困難を伴うかもしれませんが、足踏みしているよりはましです。

こうなってくると、おおらかに受け入れるというより、「矛盾を受け入れてでも先に進む覚悟を決める」といったほうが正しいかもしれません。

まとめると

矛盾というのは、問題を含んでいますが、それ自体は問題ではありません。

必要なのは、結果的に人生が豊かになる選択をすることです。

どうせ、正しいことや無矛盾なことなど無いのです。

相手の矛盾も可能な限り受け入れ、自身が無矛盾であることにがんじがらめになることを避けることで、ハッピーになれることが、このセカイにはいっぱいあるんだと思います。

ouroboros