さて、こちらのエントリーでチラッと触れましたが、「情報」とはそれ自体がエネルギーを持つ「物理現象」です。
上記エントリーは長いので、一言でおさらいすると、「情報はエネルギーを持ち、物理現象と区別がつかない。2つは同じものだ」ということ説明しています。
この時は気づいていなかったのですが、情報と物理現象がイコールならば、「情報は質量や密度を持つ」ということになります。
私達が目にする情報は、通常形を持たないため、「情報」という概念が質量を持つといわれても、ピンと来ないかもしれませんが、どんな情報であっても物理的な形状を持たずに存在することが出来ないということを考えれば、当然の帰結といえます。
例えば、人の記憶や思考であれば、脳の物理的な構成がその源泉にありますし、コンピュータやインターネットの情報は、どこかのシリコンチップ上か、磁気メディア上にその本体があります。
本であれば、紙とインク、写真や映画であればフィルム(というのも少なくなりましたが)が、物理媒体として必要となってくるわけです。
それだけではなく、「僕がここにいる」という情報や「机の上にペンがある」という情報も、それ自身の物理構造自体が情報として存在しています(どんな粒度であっても情報と物理現象はイコールなのです)。
私達が残らず居なくなっても物理法則は残るでしょうが、それを記録した媒体も、その媒体に触れることで連鎖的に起こる事象もなくなります。
わかりにくいかもしれませんが、どこかにエロ本が落ちていたとしても、見る人が居なければ、誰も興奮しません。情報による物理現象の連鎖が起きないので、そこらにある石ころと同価値になるわけです。
物理法則は私達の存在を問わず存在するかもしれませんが、情報はなくなってしまうのです。
マクスウェルの悪魔によれば、その際にいくばくかの熱エントロピーを吐き出すはずですが、私達がそれを目にすることは無いでしょう(居ないから)。
そして、情報が物理現象である以上、密度が存在します。
石版に書いた情報よりも、紙に書いた情報のほうが密度が高いでしょう。
それよりも磁気テープやシリコンチップのほうが高密度です。
人類の歴史と進化は、情報の圧縮技術の進化と言い換えることができるかもしれません。
現在のコンピュータチップは、14nm(ナノメートル)という大きさを基準に回路が組み立てられています。
磁気記憶装置であるハードディスクドライブは、1Tbit/in(テラビット・インチ)の記憶密度を持ちます。
これらの技術は年々進歩しており、密度を増していますが、近頃は物理的な微細化の壁が厚く、進歩のスピードが鈍くなって来ています。
今後も高密度化は進んでいくのでしょうが、どんなに小さくても物理的な「場所」を取るということには変わりなく、そこには限界があるということが見えてきています。
この先は、「遅すぎる光速」や「粒子の不確定性」との戦いです。
「神の作った檻」(この宇宙は光速の檻でできている参照)との戦いになるわけです。
僕は「情報を圧縮し続ける力」がある閾値を超えると、ブラックホールのように際限なく情報を吸い込み続ける「特異点」ができると信じています。
人類(やその後継の機械たち)は、この閾値を超えることができるのでしょうか?
それとも精巧で堅牢な、犯し難い神の檻によって敗れ去るのでしょうか?
期待が高まります。