セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

「信じる」のはそれが定かじゃないから

信仰についてです。

信仰というのは、その核に「信じる」という行為があります。それは、核というよりも存在の定義そのものと言ってもよく、魚屋が魚を売るように、宗教は信仰を売ります。

信仰には未知が必要です。

魚屋が魚を売ることを「信じる」必要は無くて、ただ「知れ」ばよいことです。もし、それだけでは不安なら、調べて確かめれば、容易に定かなものにすることができます。定かなものを「信じる」必要はないので、信仰の対象は必然的に「定かでない」ものということになります。

別に「田植え後にタイミングよく雨が降るか」や「かまどの火が絶えずに燃え続けるか」なんてことを信仰の対象としてもよいのですが、より確固たる未知は、何と言っても「死」です。

人類は未だに、死後の世界について確固たる事実を証明することができておらず、そこには純然たる「未知」が広がっています。そのため、古くからその未知は信仰の対象となってきました。

人は死んだらどうなるのか?

これは、「魚屋に行って魚を売っているか調べる」のとは訳が違い、「信じる」しか方法がありません。誰も知らないことですので、好きな定義を信じればよくて、それは、「天国に行く」でもよいし、「何もない」でもよいし、「魚屋になる」でもよいはずです。

それ以外にも、「信じるのをやめる」という方法もあります。

「死後の世界を知ることはできない」という事実をありのままに受け止めてみると、そこには、純然たる「未知」が顔を出すのですが、果たして彼は、信仰によって姿を消していたのでしょうか?

いいえ違いますね。彼は、ずっとそこに居たし、今も居ます。

逆説的ですが、純然たる未知は純然たる未知であるがゆえに、長らく信仰の対象としての位置をキープしてきました。だから、信仰をやめたとしても、未知は未知のままです。ずっとそこにあって、毛ほども動いていません。

確固たる信仰には、確固たる未知が必要になります。

信仰することで、未知と対峙する力を得ているという事は、逆に言うと「信仰のためには未知が必要」ということになります。今まで未知として定義していたものが、科学の進歩によって未知でなくなってくると、定義との矛盾が出てきて力を失いますので、貧弱な未知では駄目です。

信仰は、純然たる未知に、離れがたく依存しているのです。

「定かでないから信じる」のか、「信じるために定かでないものを探す」のかという境界線は思ったよりも曖昧で、手段の目的化と目的の手段化がお互いの尻尾を食い合う蛇のように円環をなす形をしています。

信仰は、私たちに必要なものです。

しかし、分解していくと核の部分に「純然たる未知」への依存が、分かちがたく存在しているのです。

信仰とは何なのでしょう?

難しいですね。

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