昨日は、土門拳記念館に行きました。
そこには、非常に美しく芸術性の高い仏像の写真が何点か展示されていました。どれも、畳一畳分以上の大写しにされた写真で、確かな技術で撮影されたそれは、細部まで高精細に描写されており、ライティングや構図も恐らく「ここしかない」ポイントを外さずに、仏像を最高の状態で写真に封入した作品なのだと思えました。
土門拳は、ポートレートや子どもたちの笑顔、風景などを撮影していましたが、後年は仏像の撮影にこだわっていたようです。
大写しにされた仏像からは、それを彫った職人さんのひと彫りひと彫りの想いや祈り、気迫や魂のようなものが伝わってきました。そして、それをこのような形で芸術的な写真に収めた土門拳の気迫も、僕を圧倒するには十分すぎるものでした。
反面、その芸術性が高すぎるゆえに、僕の心に去来するものがあったことも確かです。
仏教、もしくはブッダの仏教は、人々に救済を与えるような性質のものではありません。
もちろん、仏教自体様々な宗派に分かれ、長い歴史とともに様々な教えや修行が実践されてきましたので、それらの解釈や、偉大な先人たちが魂を込めて説いてきた教義に相対するような勇気は僕にはありません。なのでハナから及び腰ですが、これから述べることは、僕自身の解釈と思索を辿るだけの文章で、それ以上でもそれ以下でもありません。
逆に言うと、仏教や宗教という巨大な思想や膨大な経典に対して、個人の見解以上の事を言える人物もこの世に居ないと思いますので、すべてはそれぞれの意見だと言えるでしょう。オピニオンの集合こそが仏教の本質的な特性なのだと思います。
さて、話がそれましたが、仏教は、人々を超常的な力で外側から強制的に救済してくれるような力を持ちません。あくまで個々人の能力において、正しく修行して、自分の力で「悟りの境地」であるところの涅槃を目指すという考え方が根底にあり、そのためにどういう行動や智識が必要なのかについて、解説しサポートしてくれる宗教です。
仏教が執着を捨て涅槃を目指す人々の集団なのだとすると、仏像に祈るという行為は何の意味も持ちません。それよりも、樹下に腰を下ろし瞑想をしたほうが、よっぽど彼岸に渡る手助けになるでしょう。
「如実知見」は、あるがままに物事を見るという、仏教の基本的なスキルです。これを身につけるために、僧達は瞑想を行い、経験値を積みます。経験値を積みレベルが上がるとスキルポイントが得られるので、それを割り振ることで異能力が得られるわけです(嘘です)。
「如実知見」スキルを発動すると、職人たちが魂を削り、命をかけて磨き上げた仏像は、それがどんなに美しく芸術的であろうとも、木像であれば木材に見えますし、石像であれば石塊、土像であれば土塊に見えるわけです。
木材や石塊や土塊に手を合わせて祈ったところで何も起きません。
仏教の文脈を素直に解釈するならば、そのようにしか読めないのです。
もし、そうではなくて、祈ることで何かが起こる世界だったとしたら、どうでしょう?
仏様が無限の慈悲の心で、我々に救済を与えてくれるとしたら?
仏教の「悟り=救済」として、仏様が超常的な力で救済を与えてくれるとすると、即座に悟りの境地に達することができるという事になります。
強制的にすべての執着(つまり煩悩)を解除され、それまで祈りを捧げていた仏像が石ころであったことを知り、恐らく祈っていた「幸せになりたい」とか「健康になりたい」とかいう思いは色を失い、仕事も恋愛も健康も富も老いも死をも超越し、世俗との接点を失った「悟った人」になるわけです。
元から涅槃を目指して修行をしていた出家者であれば、存外の幸せ(?)であろうとは思いますが、我々世俗の人間にとってはショックが大きいんじゃないかと思います。
なんせ「幸せ」を祈りに来たら、幸せの概念そのものを破壊することで、幸せになる必要性を無くしてしまうという拡大解法にて問題を根本治癒してしまうわけですから。
漫画なんかで言うと、「くくく。救済が欲しいか?ならば与えてやろう!!!悟りという名の救済をな!」と主人公を廃人にする悪の総統的な役回りです。
ブッダは悟りを得た際に、それがあまりに直感に背くことを危惧し、民衆に説法するべきか迷いました。そして、一旦は誰にも知らさずに、自らの心の内にとどめることを選びます。
それは、ブッダの悟りがあまりに逆説的で、一般の人々の理解を得られないだろうと考えたからです。
ブッダとしても自分の得た真理が真理であることに揺ぎない確信を得てはいたものの、大衆に受け入れられる思想であるとはまったく思っていなかったようです。
真理は直感に逆らいます。
ちょっと話題がそれますが、僕はあらゆる点において、真理というのは人々の直感に逆らうものだと思っています。
自然科学の世界であれば、天動説や無理数に始まり、リンゴが地球を引っ張るニュートン力学、空間や時間がぐにゃぐにゃ歪む相対性理論や、波動の収束によって時間的な因果を遡るように見える量子論など、科学の歴史はその当時の人々の直感的な理解に逆らい続ける歴史でした。
プログラミングの世界でも、テストファーストやインクリメンタル開発などの失敗を許容する文化は、頭のお硬いお偉いさん方の直感に逆らい続け、スタートアップの世界でもクレイジーで誰もが失敗を確信するアイデアでなければ上手く行きません*1。
そして仏教です。
幸せや愛情から手を離すことで、至高の静寂を得るというブッダの思想は、逆説的で人々の直感から離れます。
ぱっと見、理解しがたい難解な哲学です。
それにもかかわらず、ブッダの教えは、それを理解し実践する人々の共感を得て、世界に広まりました。
しかし、「直感から離れることが出来る人がいる」ということと、「人々が直感から離れ続けることが出来る」ということは、大きく違います。
仏教が世界中に寺院を持ち、数知れないほどの仏像を建立してきた歴史は、人々が直感から離れ続けることが出来なかったということの証左のように思えます。
人々は、寺院を建て仏像を建て祈りを捧げます。
それは、非常に直感的な振る舞いで、神様仏様に「すがる」という行為自体、人間の認知の根幹に根を下ろした、文化的な営みであることは間違いありません。
キリスト教や神道であれば、何の問題もない、むしろ礼賛されるべき事柄でしょう。
しかし、仏教にとって仏像に祈るという行為は、根本に大きな矛盾を孕んでいます。
上記の通り、土塊に祈ることが、何の意味も成さないだけでなく、純粋な悟りへ向かうには恐らく邪魔になるからです。
これが、許容され、拡大され、伝播していき、人々の支持を得てきたということは非常に興味深い事実です。
そして、冒頭の土門拳の写真に心動かされることも紛れもない事実であり、仏像や芸術が、人の心の本質的なところを揺り動かす、大きな力を持ってることには疑いの余地がありません。
ですが、悲しいことに、この気持ちには出口と呼べるものが存在しません。
美しさを美しく思う心は、如実知見では無いからです。
出口に蓋をされ、ぐるぐると渦巻く魂の行く先はどこにあるのでしょうか?
直感に反し、問題を根本的に根こそぎ押し流してしまうという拡大解法を採るブッダの言葉には、人々の魂を永遠にめぐる輪廻の呪縛から解放しようという無限の慈悲と、それがもたらす苦悩のない素晴らしき異世界が示されています。
人間の直感に反する無垢なる新世界。その世界には仏像は無いのです。
人間の感情や欲望は、矛盾やパラドックスやジレンマに満ちていて、無矛盾なゴールを設定するためには、幸せの定義を根本からひっくり返す必要がありました。しかし、その答えが、また矛盾とパラドックスとジレンマを産み出しています。
世界は多層的に成り立っていて、ひとつ世界での解答が、より高次の世界の問題を生み出しています。
そういう構造をしている以上、問題と同じカテゴリーのなかで産み出される答えには、自ずと限界が生じます。
ブッダの言葉も例外ではなく、矛盾やパラドックスやジレンマを内包する仕組みである以上、解釈を続けるほどに「問い」が増えていき、問いこそが本質であるほどに新たな苦悩を産み出していきます。
答えの数より、問いのほうが常に多いという構造をしているのです。
今回の話は、なんの答えも導きません。
ただ、問いがあるだけです。
それこそが、ありのままのセカイノカタチなのかもしれません。
*1:僕ぐらいのひねくれ者になると、何かの言説を聞いた時にそれが直感に逆らって、今までの価値観を根本的にひっくり返すような発想でなければ「本質的でないな」と考えてしまいます。これは逆説中毒の症状なので、そこまで至らないよう気をつけたほうが良いかもしれません