先日ブログに書いた、ノエルのノベライズの再読が完了しました。
約20年ぶりに読むゲーム原作の小説はどうだったのかというと。。
今読んでも、もう一度読んでも、やっぱり良い作品でした。
元がギャルゲーなので、一言で言うと「3人の女の子に惚れられる(ネタバレ?)」というハーレム物なんですが、青春している感じとか、近未来の今とそう遠くないテクノロジーの元で過ごしている高校生たちの生活の様子とかが、なんか面白いです。
もう20年前の作品ですし、謎解き物ではないのでネタバレを気にせずに感想を書きます。
文体
主人公の男の子(つまりゲームプレイヤー)が語り部手として物語の進行を担います。
そのため、高校生っぽい語り部の口語調の文体がメインとなるのですが、これが中々心地よい感じです。
若さゆえの勢いとか、失敗とか、憂鬱とか、舞い上がった感じとか、大学受験を控えた高校男児の持つ、本人にとっては一大事な、様々な感情の渦巻くグルグルした感じとか、全てが過ぎ去った大人から見たら、子供じみてて青臭いとも取れるような感性を書き綴りながら、不思議と嫌な感じがしない良い文章です。
たして大きな事件事故も起きないんですが、飽きずに読み進められるのは、ひとえにこの本の作者の文章の上手さなんだと思います。
物語の後半に、バイク屋のジェイコブ(通り名)と酒を交わしながら恋愛観を語り合うシーンが有るのですが、そのシーンは、こんな文章で綴じられます。
「俺は悲しい、悲しくて寂しいんだよ」
なんてリフレインは覚えているんだけど、果たしてジェイコブが言っていたのやら、ぼくが言っていたのやら、全然覚えていないのだった。
この一文ですが、僕は名文だと思っています。
初めて読んだ時に頭の芯にこの文章が突き刺さり抜けなくなって、でも、この小説の中の文章だってこと自体忘れてしまったのですが、時々思い出して、頭の中をグルグル回っていました。
結局、5年ぐらい前に「あ、ノエルの一説じゃん!」と思い出したのが、今回この小説を読み返す遠因になっているような気がします。
つまり、この文章を読み返したくて、もう一度この本を手に取ったのです。
なんか、(二重の意味で)そういうことって、青春時代のオトコノコにはありがちなことですよね?
女の子たち
この小説は、主人公と3人の女の子たちを中心にお話が進んでいきます。というか、ほとんど4人だけの世界で進み、恐らく半分ぐらいは主人公の独り言です。
そんなわけで、甲乙つけがたいような美少女たちと偶然であった主人公は、代わる代わる女の子たちにテレビ電話したりされたりしながら、悩みを聞いたり悩みを深めたりしながら、青春の時を過ごしていくわけですが、やっぱり「女の子の家に電話。しかもテレビ電話」というのが、僕のように純朴なオトコノコの感性にズサっと突き刺さるわけです。
僕が、高校生の時代には、ケータイを持っている高校生なんて居ませんでしたし、ましてやテレビ電話なんてドラえもんの世界の話だったわけで、こんな高校生活が送れたら、完全に虜になって傀儡になって生ける屍と化していたことでしょう*1。
この小説(というかゲーム)の恐ろしいところは、今の高校生であれば、(出会いの偶然はあるにせよ)テクノロジー的には、このシチュエーションを完全再現可能だってことです。羨ましいぞ。おじさんは。
今の高校生たちは、ラインとかで気軽に電話して、ノリが良ければビデオ通話とかもしちゃっているんだろうか・・・。
時代考証
当時は、未来を書いた小説だったわけですけど、今、僕らは未来人(?)なわけなので、当時描いた未来が、今、どうなっているか?ということを検証できるわけです。
ただ、この小説、未来の風俗を描くリスクをなるべく減らしたかったのだと思いますが、主人公及びその父親は懐古趣味で、友達も古いロックなんかを伝導する「アッパークラスの趣味を代表する人物」なんかが居たりして、1960年代~1990年代の話題が多い(当然か)ため、当時から見て「未来」となるような文化はそんなに多くは出現しません。
その中でも、気になるものをピックアップして見てみたいと思います。
家の電話
まず、何と言っても槍玉に挙げるべきは、「家の電話」でやり取りをする点でしょう。
残念ながら、この物語の世界では、携帯電話が普及していません。
家の電話が進化して、ネットワーク機能を持ち、テレビ電話になっているという設定です。
現実の私たちは、家の電話なんて使っていません。
もし、ノエルの世界にケータイが普及していたとすると、だいぶ風情が削がれてしまったのではないかと思います。
これは、90年代を生き抜いた老兵の懐古趣味だとは思いますが、ケータイのない世界と言うのは、不便でありながら情緒があったんだと思います。
電話代
ついでに、ちょっと気になった表現があって、主人公はリゾート地に住んでいて、女の子たちは東京に住んでいます。
そのため遠距離電話になっているので「電話代が高い」という描写が出てきます。
当時、インターネットもプロバイダまで電話を掛けて繋いでいて、遠距離のアクセスポイントにかければそれだけ電話代が高くなります*2。
僕も、大阪のホストにアクセスしていて電話代が1万を超え、親父に怒られた経験があるのですが、今では距離を気にせず世界中と通信ができるようになりました。良い時代です。
電子メール
主人公と女の子たちは、電子メールも使いこなします。そして、頻繁に「ビデオメール」のやり取りをするのですが、この辺は、微妙なところですね。最近は、SNSなんかでも動画をアップすることが増えました。もう数年すれば、今よりも遥かに多くの動画が、インターネット上に流れることになると思いますが、それらが「ビデオメール」で送られることは無いでしょう。
インターネット黎明期には、「キラーアプリ」の地位を譲らなかった電子メールですが、最近は分が悪いです。
もちろん、まだしばらくは「絶滅」ということは無いでしょうが、メッセンジャーやSNSが主流となっており、王様の地位は明け渡したと見て間違いないでしょう。
世の中わからないものですね。
電子掲示板
この辺は、1990年代のネットワーク事情からすれば、自然の成り行きなんですが、草の根的な電子掲示板やチャットがそこかしこに存在しているような世界観のようです。
当時は、インターネットも普及しておらず、2ちゃんねるもまだない時代だったので、「アングラコミュニティサイトが点在する」という世界だったのです。
まあ、それすらもドマイナーな存在だったのですが。
内燃機関の存在が主流から外れる
主人公は、XJ(ペケジェイ)に乗っています。
ペケジェイと言うのは、ヤマハの油冷エンジンを載せたネイキッドタイプのオートバイですが、「環境税が高い」なんてセリフも出てくるので、環境対策が進み、内燃機関(ガソリンエンジン)を搭載した車・バイクはマイナーで反社会的なポジションに追いやられているようです。
「温暖化」という単語も出没するのですが、1996年って地球温暖化の認識がどの程度あったのでしょうか?
記憶にありませんが、当時から二酸化炭素と地球温暖化の関係が取り沙汰されていたのだとすると、私達は20年間環境対策に対して、あまり進歩していないようです。残念ですね。
時代考証をまとめると
当時のテクノロジーの延長上にある未来としては、良く書けていると、未来人の僕は思います。
逆に言うと、当時の世相を色濃く反映させているため、逆説的に1990年台の文化を巻き戻せるわけです。
未来を書いた小説を未来に読むというのは、中々面白いものです。
ぜんたいのまとめ
20年ぶりに読む未来小説は、色んな意味で面白かったです。
なんか、青春時代の気持ちを取り戻せたような戻せなかったような?
不思議な感じです。
先日、1円で買った続編の方がまだ未読なので、そちらも読んでみたいと思います。
- 作者: 神山修一
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/09
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