セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

正義なんて存在しない理由("これからの「正義」の話をしよう"読書感想文)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

読書感想文です。

この手の「数年前に流行った知識系の単行本」というのは、「アマゾンのマケプレで1円」という法則(?)があり、ご多分に漏れず1円販売をしていたため購入して読みました(送料込みで258円)。

僕はひねくれ者なので、「正義」なんてものが「存在しない」という立場を取っています。

この持論の「正しさ」を証明するために、この本はうってつけでした。なぜなら、ハーバード大学の偉い講師さんが「正義」について網羅的に語っている本なので、これに登場する正義たちが存在しないことを確かめていけば、労せずしてある程度網羅的に正義の否定が出来るからです。

そんな読み方をしたので、頭が混乱して読むのにだいぶ時間がかかりましたが*1、時間を掛けただけの甲斐はありました。

結論から言うと、僕が確かめるまでもなく、本書によって「正義」の結論は出ませんでした(存在しないので当然なのですが)。

幾つかの理論を紹介し、それらの問題点などを語り、最終的な筆者の結論(が、出ていないのでその候補たりうるヒント)を述べて終わります。

つまり、正義なんていう錦の御旗を大上段に構えてみたは良いものの、実際にやっみると難しくて、様々な理論を「あーでもないこーでもない」と拘泥するばかりで一向に先に進まないどころか、同じところをグルグル回っているのが精一杯というのが、今の正義の姿だという事になります。

僕は、2600年前にブッダが登場して、正義のあり方、というかもっと大きく、人や世界のあり方について、究極的な解答に及んだと思っていますので、西洋文化のこの有り様はなんとも情けないと言わざるをえないでしょう(かくいう僕もついこの間ブッダの哲学について理解を深めたばかりなので偉そうには言えないのですが・・・)。

以下に、各トピックの紹介と僕の感想(というかイチャモン)を述べていきたいと思います。

功利主義

功利主義は、「最大幸福原理」によって物事の善し悪しを判断する方法で、本書では割りと古典的な「正義」として登場します。

これは、トロッコ問題で「大多数が助かる手段を選ぶ」正義だといえます。

トロッコ問題 - Wikipedia

功利主義は、割と簡単に否定できます。多数の正義のためならば、犠牲を厭わないという方法では乗り切れないような道徳的な問題を例示するのは難しくありません。

本書では、ローマ時代にキリスト教徒をライオンに投げ与え、喝采を浴びせるローマ市民や、テロ容疑者への拷問などが例示されています。

功利主義についての感想

僕の感想としては、功利主義の問題は、功利の判断にあると思っています。

功利主義である以上、どちらが「功利的か」という判断が正義に関わる重大事となるわけですが、現実の問題を相手にした時、この判断は非常にシビアになります。実際の例を挙げると、築地市場の豊洲への移転問題や、北朝鮮との外交問題、エネルギー問題(つまり原発)や、年金や医療費、少子化問題など、功利主義で片付けようにも「どの判断が功利的かわからない」問題だらけです。そのため政治の世界では侃々諤々の議論が絶えません。

つまり、功利主義が抱える致命的な欠陥は「未来予測に基づく功利判断」にあります。

良かれと思ってスズメを撲滅した結果、害虫が大量発生して大規模な飢饉に襲われることだってあります。

トロッコ問題だって、1人の犠牲で5人を救っても、その5人は実はテロリストで、40万人の合衆国市民の安全を脅かす存在かもしれません(そして、犠牲になった1人がジャック・バウアーかも)。

誰が結果に対してのリスクを負うのでしょうか?

人間万事塞翁が馬です。

未来の予測なんて誰にもできないのに、未来に起こりうる利益を前提で組み立てられた正義など当人のエゴにすぎません。

自由至上主義

自由至上主義というのは、個人の自由意志を最大限尊重しようという考え方で、アメリカでは根強い信奉者をもつ正義です。

ここでは、マイケル・ジョーダンの高い年俸と高い税額は、正しいのかという問題を取り上げています。

自由至上主義者(リバタリアン)は、高い年俸は才能に対する正当な対価であり、高い税額は彼の自由を奪うものであり間違っているという考えを持ちます。

自由至上主義は、自己の所有権が不可侵であるという哲学を持ち、自由意志を尊重します。

本書では、徴兵制を引き合いに出しています。

徴兵制は、兵役の強制という意味で、リバタリアンには耐え難い仕打ちでしょう。では、志願性が公平かというと、限られた境遇に生きている人たちにとっては、半強制的な選択肢となりうる点で、公平といえるか疑問が残ります。

持って回った言い方をしましたが、何処の国でも金持ちより貧乏人のほうが、兵隊に志願しやすいということです。

合衆国では、移民に優先的にグリーンカードを出すという条件で兵隊を「買っている」という問題が紹介されています。

自由至上主義についての感想

僕の感想としては、自由至上主義の最大の欠陥は、自由の定義にあると思います。

人が「自由である」とはどういう状態を指すのでしょうか?これは、正義に直結する重要な概念です。

リバタリアンは、自由意志で結ばれた契約を重んじます。たとえそれが「腎臓を売る」という契約であったとしてもです。自分の命に値段をつけることだって「自由である」としています。しかし、徴兵制が示すように、本当に自由な意思で職業や契約を選択している人間がどれほど存在するでしょうか?

経済的な理由もさることながら、身体的な理由や、病気や精神的な理由で、本来選択したい自由が束縛されているケースもあるでしょう。直前に見たCMや映画の影響で購入する商品を選択することは、自由な意思と呼んでもよいのでしょうか?

「それは自由な意志ではない」と声高に叫ぶ人物がこの後登場しますが、それを待つまでもなく、自由意志の定義は困難を極めます。

どんな例示にもすぐさま反例をひねり出すことが出来るでしょう。

人は、様々な因縁に縛らて生活しており、これを切り離して「完全に独立した自己」を定義することはできません。

自由が定義できないのであれば、自由至上主義が存在することはできません。

カント(1724-1804)

カントは、「道徳形而上学原論」という本において自身の正義を語ります。

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

曰く「動物のように快楽を求め苦痛を避けるのはほんとうの自由ではない」「自由な行動とは、自律的に行動すること」だそうです。

自律的とは、「自然の命令や社会的な因習ではなく、自分の定めた法則に従って行動する」という行動原理で、反対は「他律的」で、これはほかからの影響によって「打算的に」行動することを指します。

「正直であるために正直な行動を取ることと、利益のために正直な行動を取ることの間には、道徳的に重大な違いがある」という考えを持っていて、道徳的であるためには、決まった種類の動機が必要で、自身で選択した法則に従って行動することが必要だそうです。

何らかの打算的な条件がついた「仮言命法」と、無条件に行動する「定言命法」という概念も導入しています。

カントによれば、全ての人間の人権を守ることが正義であり、相手が何処に住む誰であろうと関係なく、「ただ人間だから、合理的推論能力を備えた存在だから、したがって尊敬に値する存在だから、人権は守られるべき」だそうです。

カントについての感想

僕の感想としては、「他の影響を受けて快楽を求めたり苦痛を避けるのは本当の自由ではない」という考え方はそのとおりだと思います。

ただ、カントの問題は「だから絶対的な判断基準を持てば良い」という方向に舵を切ってしまったのは失敗です。カント及び、キリスト教圏の人々の根底にある哲学なのでしょうが、絶対神を念頭に置いた「絶対的な道徳」というものの存在を暗に前提としており、そこから発展させる形で理論を展開しています。

自由至上主義でも触れましたが、人格形成において材料となるのは、遺伝による生来の身体的精神的特性と、親兄弟や他人による影響で全て埋め尽くされます。

逆に、誰からも何の影響も受けずに存在できる人格がありうるのか?ということを考えれば、このことは自明です。

「自らが選択した法則に従う」という前提は、「「自らが選択した法則」を選択する」際には誰からも影響も受けていないのか?というメタ概念によって打ち砕かれます。

本当の正義が存在するならば、「正しいから正しい」というトートロジーを避けなければなりません。

「絶対的な正義に従うから正義なのだ」という理論は単なるトートロジーです。「では絶対的な正義は何に従うのか?」という話になりますし、そこに答えが出ないのであれば、その正義が正しいとはとてもいえないでしょう。

ジョン・ロールズ(1921-2002)

ジョン・ロールズは、「無知のベール」による選択を提唱しています。

無知のベールとは、政策を決める際に、自分自身が誰かわからなくなるようなベールを被った状態で選択を行えば、マイノリティに対する不利益が発生しないだろうという理論です。

マイノリティに不利な判断をした時に、ベールを脱いだ自分がそのマイノリティである可能性があるからです。

無知のベールによって、真に平等な社会を築くことができるだろうというのが、ロールズの主張です。

ジョン・ロールズについての感想

「無知のベール作戦」は、うまくいかないでしょう。というより、実際には実行不可能なので、思考実験でしかありませんし、それを想像するのが人間である以上、完璧に状況を再現することはやはり不可能でしょう。

それ以外にも、この方法には問題があります。

自分自身のアイデンティティがわからないベールをかぶるといいますが、それはどこまでの記憶や状態を隠す必要があるのでしょうか?「ベール」というのが象徴するのは、肌の色です。ロールズは単に「肌の色を隠せば正しい判断が出来る」と無邪気に述べたのでしょうか?

現代社会を分断しているマイノリティ問題というのは、肌の色にとどまらないことは、明々白々です。

性別や、性的マイノリティー、移民、職業、階級、血脈、言語、運動、難病など、格差の原因となる要素は様々なので、隠さなければ行けない特徴の様々になります。それらを隠し尽くしたとして、果たして「判断」と呼べるような自我が残っているのでしょうか?

判断と自我は切っても切り離せない関係にあり、大きな特徴から小さな特徴まで、シームレスに連続し、自我を形成しています。皆が従う政策を決定するのに、自我が崩壊した人々が判断を行うことが、マイノリティ差別をなくし、公平な世の中を作るのでしょうか?

それなら、サイコロでも振ったほうがマシだと思えますが、サイコロを振るためにも対象となる法案(提案・議題でも)が必要となります。

無知のベール作戦は、法案の審議を前提としている部分があると思われますが、審議するための法案は誰が作成するのでしょうか?

未来を切り開くためのアイデアというのは、作成者の人生経験に非常に強く結びつきます。そして、社会のルールを変えるわけですから、どんなに細心の注意を払ったとしても、社会に全く影響を与えない法案というのは存在しません。

つまり、審議の段階では既に恣意的な思想が入り込んでしまっているわけです。

結論として、無知のベールで覆い隠す対象は「人格全て」ということになりますし、判断する対象の法案は「見つからない」ということになります。

アファーマティブ・アクション

アファーマティブ・アクションは、主に大学入試において、マイノリティに対して優遇措置を取ることを指します。

本書では、このことに対する批判や、白人男性による訴訟などを紹介し、大学側の立場や意見を踏まえて考察します。

アファーマティブ・アクションについての感想

アファーマティブ・アクションは、大学側の主張も裁判の争点も「実利性」にあります(正義のバックグラウンドは当然あると思いますが)。大学は、地域や社会にとって多様性が大きなメリットを生むという信念からアファーマティブ・アクションを実践しています。大学は、公共性の高い組織ではありますが、営利団体でもあります。大学がどのような学生を採用するのかについては、大学側に大きな裁量が認められる事柄になります。

差別や分断を推進するような施策ですと別の問題を引き起こすと思いますが、多様性の推進には一定の正義が認められることは自明と思われます。

ケースバイケースで、リスクを取りながら未来の可能性を選択するという行為は、何よりも尊いことです。

同時に、それは正義の本質的な構造を示唆する良い材料となると思います。

アファーマティブ・アクションは、どのような「正義の原則」から導き出されたものでしょうか?

功利主義でしょうか?最大多数の最大幸福を選ぶのであれば、マイノリティをサポートすることは、直接的には功利的とはいえないでしょう。バタフライエフェクトのように、様々な効果が相乗して、人類やアメリカ合衆国や大学に利益をもたらす結果になるかもしれませんが、あまりにも関連するファクターが多すぎて、アファーマティブ・アクションの導入は一種の「賭け」となるでしょう。そして、効果の測定もろくに出来ない試みである以上、功利主義的な手法とは言い難いと思います。それが功利主義の限界でもあるわけですが、功利的な選択というのは、不確定な要素に対して弱く、長い時間がかかり影響規模の大きな選択ほど、判断が難しく(目先の利益にとらわれるあまり)失敗しやすくなります。

自由至上主義でしょうか?これも明らかに違います。白人からみれば、明らかに不公平です。もちろん、大学側には「採用基準を决める」自由があり、その自由に則って大学受験を决める学生は、自由な契約を行っていると言えます。しかし、それを言い出すのであれば、徴兵制も自由といえるのではないでしょうか?国は、政策や法律を决める自由があり、国民はアメリカ合衆国国籍を離脱する自由があります。結局「程度問題」であれば、どこに線を引くかという議論を延々と続ける必要があります。そこに定性的な自由と正義があるようには思えません。

カントはどうでしょうか?大学は、「自ら選択した法則」に従って行動したといえるでしょうか?これは言えるかもしれませんし、言えないかもしれません。アファーマティブ・アクションのような複雑な事例が「自ら選択した法則」かどうかなんてどうやって判断するのでしょうか?「戸口に立つ殺人者にその場しのぎの嘘をつく*2」といった単純な事例とはわけが違います。大学という組織の判断であって個人の見解でもないですし、複雑過ぎる問題はカントの守備範囲外となるのでしょうか?しかしそれでは、個の集合が組織であり、さらに集まって社会を形成していることを考えると片手落ちと言わざるを得ません。

ロールズの「無知のベール」ならばどうでしょうか?自分が、白人なのかそれ以外の人種なのか、女性なのか男性なのかわからない状態ならば、アファーマティブ・アクションを支持する可能性はたしかに高いです。しかし、アファーマティブ・アクションの発案はどうでしょうか?これは大学関係者であり、もっというとアメリカ合衆国の大学関係者であり、様々な社会問題への深い造詣と洞察がなければ難しいでしょう。「無知のベール」は無知であるがゆえ、誰でもわかるような簡単な問題にたいしての答えを出すことは出来るかもしれませんが、発案は出来ません。専門分野の込み入った問題に対処するためには、それなりの知識や教養が必要となります。知識や教養は「無知のベール」と切り離せるでしょうか?「自分は、黒人差別問題に非常に詳しく、黒人の友達も多く、黒人たちのスラングも理解できる」となれば、「自分は黒人かもしれない?」と類推することは容易です。もし、実際に「無知のベール」による投票を行うのであれば、投票者は自分の所属するグループを注意深く推測するに違いありません。「無知のベール」は人をどこまで白痴にすれば満足行く結果をもたらすのでしょうか?

アファーマティブ・アクションが示す正義とは、定性的な正義の原則から導かれるのではなく、すべての事柄に対して、個別の議論と個別の判断が必要だということです。そこにあるのは、永遠に続く、不確定な未来に対する挑戦と改善のサイクルのみです。

法律と犯罪の関係のように、決められた正義があり、それに適合するか判断すれば良いという考え方は、決して適用できないということです*3

アリストテレス

アリストテレスは、『正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因(テロス)(目的、最終目標、本質)」を知らなければならない(p241)』と説いています。

「最も良い笛をもらうべきなのは、笛を最も上手に吹く人だ」という例で端的に表せるように、対象となるものの「本来あるべき目的」に最も合致する形で利用されることが理想的という考え方です。

アリストテレスの時代には、目的論的世界観が優勢だったようですが、現代では廃れています。本書では、くまのプーさんを引き合いに「ミツバチが蜂蜜を作るわけは、僕が食べるためさ」というセリフを引用しています。

もちろん、こんな理論はでたらめなのですが、本書では、他の理論では苦戦するであろう「アファーマティブ・アクション」について、アリストテレスの理論で論じ直します。

大学の目的(テロス)とはなんでしょうか?

これは、様々な議論を呼びますし、時代とともに変わっていくでしょう。しかし、アリストテレスは複雑な社会制度であっても目的を論証することが可能だと捉えていました。

その根拠としては、政治そのものが「善き市民を育成し、善き人格を養成する」ためにあるという理念です。

つまり、絶対的な基準に従うのではなく、継続的に政治的な活動を行うことにより、より善い美徳に習熟することができるという考え方になります。

アリストテレスについての感想

アリストテレスの試みは、「正しい」と思います。絶対的な正義ではなく継続的に動的な改善を続けていくこと。その活動自体を「正義」と呼ぶのであれば、それは正義であるといえるでしょう。しかし、そのことは同時に「絶対的な正義は存在しない」という事実を明るみにします。

本書では、アリストテレスの問題点として「奴隷制度の擁護」と「18ホール自分の足で回れない足の悪いゴルフプレイヤーはプロゴルファーにふさわしいか?」という境界線の判断についての実例を挙げて、アリストテレスの正義の問題点としていますが、見当違いです。

何故ならば、動的な改善が正義であるならば、個別の判断が間違っていようが本質的な問題とはならないからです。奴隷制度は、当時のギリシアでは必須の社会制度でした。それは、ギリシアだけではなく周辺国のパワーバランスや文化などを踏まえても、当時取れる選択肢の限界だったといえるでしょう。絶対的な正義は存在しないのです。当時の判断を現在の基準で批判することは意味がありません。

ゴルフカートの問題についても同様です。後数年もすれば、カートで移動するどころか、人間ですら無い人工知能を搭載したロボットプロゴルファーの是非について議論しているかもしれません。それとて、その時々において、継続的な改善の一環として判断がくだされたのであれば、正義の枠組みからは外れないでしょう。

正義は、存在するのでもしないのでもなく、何処にでもいつでも存在しており、常に変化し形を変え続けているため、その姿を誰も捉えることができないものです。

存在するが、存在しない。

禅問答みたいになってきましたね。

忠誠のジレンマ

戦争の責任というのは、いつでも難しい問題です。

我が国でも、「戦争責任」という単語は、いつでも議論の中心にあり続けています。

本章では、戦争責任や差別問題や名誉や誇りの継承の問題と、自由とのバランスについて採り上げています。

端的にいうならば、戦争責任や差別の問題を「親や祖先の問題」であり我々に責任がないとするのであれば、一貫性を保つためには、我々の祖先や国が持つ歴史や文化、誇りといったプラスの要素も放棄しなければならないことになります。

アメリカがかつて行ってきた黒人差別や原住民への弾圧に対する責任が現在のヨーロッパ系白人アメリカ国民にあるのでしょうか?

自己が過去と完全に切り離された自由な存在なのであれば、家族の繋がりや国家への忠誠心はどこからやってくるのでしょうか?

こういった疑問に対する答えの1つとして、アラスデア・マッキンタイアの説を紹介しています。

マッキンタイアは、「人間は物語る存在だ(p286)」としています。つまり我々は、物語の探求としての人生を送り、社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた立場に対処する必要があるということです。

この問題の際どい実例として、「フランスのレジスタンスが故郷の村を空爆できるか?」という話や「エチオピアの飢饉に際してイスラエルがユダヤ人のみを救出することは道徳的か?」というような話を挙げています。

忠誠のジレンマについての感想

人は、様々な文脈を背負って生まれてきます。

家族や地域、国からの影響を受けて生活しますし、様々な出来事への判断、道徳といったものも、身の回りに存在するありとあらゆるものの影響がごちゃ混ぜになったものです。

昔から「義理と人情の板挟み」といわれるように、様々なジレンマの中で生きているわけです(こういったことわざも文脈の一つですね)。

これを断ち切って生きることはできませんし、たとえ現在のしがらみをすべて断ち切ったとしても、過去に受けた影響まで消すことはできません。

全ての人が、あらゆる影響によって雁字搦めになっているとすれば、正義の形も人それぞれであり、時々においても変化するということです。

繰り返しますが、ここでも正義の姿というのはとらえどころがないという結論に収束していくわけです。

正義と共通善

この本の最終章ですが、これまで紹介してきた正義達の総括と、筆者が「ヒントになる」としている「共通善」についての考え方を紹介しています。

この章の文章は、他の章と比べても最大限にフルパワーで「もってまわった」言い方に終始しており、筆者の考えを掴むのが非常に大変でした。

ここも端的に述べるとすれば、「絶対的な(中立な)正義は無い」ということが言いたいみたいです。

正義と共通善についての感想

この章が奥歯に物が挟まったような言い回しになってしまうのは、キリスト教圏において「絶対的な正義は無い」と言い切ることに対するリスクが、東洋圏に生活する私達が想像するよりも遥かに高いこと原因なのではないかと思われます。

なんせ、異端裁判の世界ですから、近代化したとは言え、市井に浸透した「歴史の重み」というのは中々払拭できないのでしょう。皮肉なことに、ここにも歴史文化に対する「忠誠のジレンマ」を感じます。

ここで共通善と呼んでいる概念は、大多数の文化的な道徳観を指しており、極端に政治への道徳観の割り込みを嫌うアメリカ文化へのアンチテーゼとなっているようです。

何れにせよ、初めの方で議論された「絶対的正義」たちはどれもチグハグで、それぞれに問題を抱えていました。

議論と考察を進めていくうちに、静的な正義というのは姿を消していき、最後には個別の判断や歴史文化的な文脈を伴う「継続的に改善する仕組みとしての正義」へと主眼が変化しています。

正義は存在しない。

存在するが存在しない。

存在しないが存在する。

果たして答えは何処にあるのでしょうか。

まとめると

今回、久々にセカイノカタチ的なネタで、文字数も1万字を超えてしまいました。^^;

ここまで読み進めて頂いた方もあまりいらっしゃらないとは思いますが、もし読んでいただけたのであれば、とても嬉しいです。

正義を巡る議論は、自由を巡る議論であり、自由を巡る議論は、人の意思をめぐる議論でもあります。

人は、残念ながら自由ではありません。人の意思というのは、どこまで行っても主観的であり、縁起の因果から逃れることはできないのです。

それは、本書を通しても逆説的に導き出すことができました。

真理に向かう道は一本ではないと思いますが、到達点というのはただ一点、主観を消し去ったゼロポイントのみです。

そこに正義は存在しませんが、自由は存在します。

答えを知りつつ、間違った議論を見て「間違っている」と挙げ連ねていくのは、非常に性格が悪いですが、答えが検証不可能な性質のものである以上、その確からしさを知るためには、あらゆる正義を検証し、不正解の山を築いていくしか無かったのです。

今回、様々な正義に網羅的に触れ、それぞれの問題点に触れ、それが当初の予想通りだったことを通して、僕が描くセカイノカタチの確からしさをより鮮明にすることができました。

お付き合い頂きましてありがとうございました。

また、色々な方向から、セカイノカタチに迫っていけたらと思います。

*1:そしてブログを書くのに更に時間がかかった

*2:これはカントが「道徳的でない」と否定している

*3:法律だって毎年時代にや社会問題に合わせて変化しています