セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

魂に頼らない生き方

魂とは何でしょうか?生命とは?私達の存在にはどういう意味があるのでしょうか?

生命とは、「生物と無生物のあいだ」の定義を借りると「動的平衡状態」です。

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つまり、ある一時期、外部から構成要素を取り込み、排出する。この行動を継続的に行う物体に「生物」という定義を与えようということです。

代謝すること自体が生物と無生物の境目であり、それ以外の方法では定義できないということを表しています。そしてこれさえも、数ある生命の定義の一つでしか無いのです。

魂の入れ物としての生命

生物と無生物の境界は極めて曖昧で、「生物とも無生物ともいえないもの」*1で溢れかえっており、「これが生物だ」と断言できる定義は今のところありません。

つまり、「魂」を「生命に宿るなにか」と定義することはできないということです。

私達の身体を単体で見た時も、取り入れたタンパク質をアミノ酸に分解した上でオハジキのように次々と入れ替えることで存続しています。

辛うじて、私達の体内に留まっているタンパク質やアミノ酸も、一時の止まり木としてその場所に居るだけで、次の瞬間には出ていく定めのものです。

つまり、私達の心と体は、とめどもなく崩壊し、再構築され続けているのです。果たして、何をもって「私」を定義すれば良いのでしょうか。

脳の物理的な制限の問題もあります。

私達の精神活動は、毎日400キロカロリーを消費し、1200gから1500gの重量と、それに伴う質量を持った物質の化学反応に支えられています。

そして、全身に張り巡らされた神経や呼吸器、循環器、消化器によって活動が保証され制限されています。

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魂は主観が求めるもの

冷静に考えれば自明なことですが、それでも私達を魂や死後の世界に誘うのは、私達が「主観」を持ち合わせているからです。

そして私達は「主観」でしか物事を見ることができません。

自分にとって、世界は自分の主観でできているわけですから、自分がいなくなるということは、世界の終末を意味しています。

しかし、世界は(恐らく)続いていき、自分は消滅する。この事象の断絶が冷静な判断を失わせる原因となっています。

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魂の存在は、その断絶に対する救済となるわけです。

しかし、科学的根拠が見つかっていない以上、魂の存在を示す根拠は「主観」が存在するという私達の「心」しかないということです。

魂に頼らない生き方

魂は、私達の主観が「自己の終焉」と「世界の継続」の間のギャップに苦しみ、救済を求めて生み出したものです。

であれば、「魂モデル」に頼らずにこのギャップを埋めることができれば、この問題はスッキリ解決します。

これは簡単で、魂を生み出す元凶が「主観」なので、主観をなくしてしまえばよいのです。

主観をなくすには、類似や経験によってあれこれ想像するような物の見方をやめ、物事をありのままに見れば良いだけです。

最初はうまくいかないかもしれませんが、練習していくうちに慣れて上手くできるようになっていきます。

そうして、主観をどんどん減じていき、最終的にゼロになってしまえば、もう魂の存在をあれこれ悩む必要はなくなります。

ここで注意してほしいのは、「主観をなくす」ことと「客観的になる」ということは別だということです。

人は、自分の目や耳(やその他諸々)によって取り込んだ情報しか持ち合わせていません。そのため、真の意味での客観性を持つことは不可能です。

人は主観しか持つことができないのです。

そのため、主観をなくすという方法しか取り様がないのです。

主観をゼロにすれば、主観と客観を隔てる壁にぴったりと寄り添うことができます。

そこが終着点です。

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*1:や「生物とも無生物ともいえるもの」や「生物でないとも無生物でないともいえないもの」や「生物でないとも無生物でないともいえるもの」