セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

子供とはなにか

先日のブログの記事で、40代の孤独について書いたのですが、反響が大きくて驚いています。その中で、孤独を回避する方法として「子供」と「瞑想」と書いたのですが、そのことで様々な意見をいただきました。中でも「子供」に関しての意見が多く見られたのですが、前回の記事では、本題から外れる話題だったこともあり、文中、舌足らずな表現になってしまったことを反省しています。

今回は、「子供」や「子供を作る」というテーマについて、自分が抱いている気持ちを書いていきたいと思います。

この話をする前に

子供というのは授かりものです。身体的な理由や経済的な理由など、様々な人が「欲しくても授からない」という状況にあると思います。また、現代の医学においても障害を持って生まれてくる子供を完全になくすことは難しいでしょう。子供に関する話題というのは、持って行きようによっては非常にデリケートな部分に触れなければならないケースがあるため、ちょっとしたタブー感があると思います。

ここからの話では、子供の価値についてが大きなテーマとなるため、「子供って凄いよ」みたいな内容がつらつらと続いていきますが、「子供の価値」に関する話題と「授かる授からない」や「生まれて不幸になる子供」などの話題については、別の議論として共存可能だと考えますので、ここではテーマを絞った話をしたいと思います。

決して様々な状況への配慮を怠ったものではないと自分では思っていますので、予めご承知おきいただければと思います。

子供を作ることは親のエゴなのか?

まず、「子供を作って孤独を紛らわす」というニュアンスに取れる書き方をしてしまったのは失敗でした。

あそこの部分は、「子供って凄い。まさに宝だ」と言いたくて、「40代の孤独も吹きとぶ」というのはむしろ結果的に付いてくるオマケみたいなものです。子供パワーにかかれば、孤独なんて鎧袖一触だと思いますので、「孤独を紛らわせるために子供を作る」というのは、本末が逆だと思いますが、たとえそうだったとしても、別にいいんじゃないかと思います。多くの方のブコメでもある通り、子供というのは欲しくて作るわけなので、基本的にはエゴの産物です。エゴでない子作りというのはイレギュラーケースでしかなくて、「望まないのにできてしまった子供」のほうが、どちらかというと不幸になる可能性が高いのではないかと思います。なので「親の都合で子供を作るな」というのは、子供の意義を巡る議論に持ち出してくる主張としては、筋が悪い気がします。

ごく少数の方ですが、「望んで生まれてきたわけではない。生んでほしいか子供に聞いてから生んでくれ」というような主張の方がいらっしゃいました。恐らくは自身の体験から「(自分のような)不幸な子供を増やしたくない」という気持ちが強くあるのだと思います。昨今のニュースを見ていても、耳を疑うような児童虐待の話題が聞こえてきますので、世の中には無数の不幸な子供たちが、今も苦しんでいるのだと思います。しかし、だからといって「子作り=悪」のような結論を導き出すと、人類は滅亡するしか道が無くなってしまいます*1

リスクというのは、常に2つあります。やって失敗するリスクと、やらなくて失敗するリスクです。以前にブログでも書きましたが、やって失敗するリスクは目立ちやすく、結果がはっきりするため、こちらのリスクを避けようとする気持ちが大きく働きますが、やらないで失敗するリスクを考えると、必ずしもそれが正しいとは限りません。

例えば結婚についていうと、「結婚して失敗した」という人の声は多く上がりますが、「結婚しなくて幸せになる機会を逃した」という事象は、不確定な未来の話なので、本来なら幸せになっているはずの人でも、声を上げることはありません。そのため、必然的に「失敗談」のほうが多く語られ、やらなくて失敗する側のリスクは見逃されてしまいます。

子供についても同様です。

「生まれて不幸になった」子供は親を恨むことができますが、「生まれることができなかった」子供は親を恨むことすらできません。これは、水子とか堕胎の話だけではなく、「そもそも出会わなかった」とか「出会ったけど勇気がなくて気持ちを伝えられなかった」なども含め、今の日本が、このように少子化にならなければ生まれていたであろう、無数の子供たちの魂を指します。

自分自身も、口にだすことは決してないですが、「もう少し早く子供を作り始めていたら、もうひとり子供を授かっていたかもしれない」という思いを抱いており、人生において数少ない「やらず後悔」をしています。

子供の価値というのは、実際に親になってみないと理解できないもので、若い頃には、自分がもっと仕事をすることであるとか、お酒を飲んだり、遊び歩いたりすることに大きな価値を感じていて、子供を作ったり、家庭を持つということの意味や価値を完全に見誤っていました。

40にもなると、今まで絶対的な価値を感じ、キラキラ輝いていたそれらのものは価値を失い、家族や子供といったものの価値が相対的に高まってくるというのは、先日書いたブログにある通りです。

子供の価値について

それで、子供のどこがそんなにすごいのか?という話ですが、これが凄いんです。『子供ができた途端、出世して、彼女もできて、札束風呂でウハウハですよ!!ガハハ』という金運アップのパワーストーン並みの効果があります。

承認欲求を満たしてくれる

まず、子供は親が大好きです。無条件に好きです。普段、かみさんから「お前のことなんて全く好きじゃない」「存在自体がムカつく」と足蹴にされ存亡の危機に立たされている駄目な夫ですが、そんな自分に対しても、「『おとうさんいつもありがとう。だいすきだよ』と書かれている」と、本人が言い張る謎のミミズ文字の書かれた手紙をくれたりします(飽きるまで)。

「承認欲求が満たされない」と嘆いている方は、子供ができればだいたい解決すると思います。「なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだ!」と驚き、目からウロコが落ちることうけあいです。

お世話したい欲求を無限に吸い取る

また、子供は「お世話したい」欲求を無限に吸い取ります。それが良いことなのか分かりませんが、「何かをお世話したい」という欲求は人の本能の一部なのだと思います。どうやら人間というのは、3kgぐらいの温かい塊を胸に抱くと親バカスイッチが入るようにできているようで、いきなり世界の価値構造が大きく変革して人生の優先順位がガラリを変わります。

「お世話しなきゃ」という欲求が無限に湧いてきて、それらをすべて子供に吸い取られます(個人差があると思います)。

子供ができる前は、熱帯魚を飼っていたのですが、子供にお世話欲求をすべて吸われた結果、管理が疎かになって水槽が荒廃したので整理しました。それが良かったのか悪かったのかは、分かりません。うちのかみさんは「収集癖が治った」といっていました。

子孫を残す本能

子供は、承認欲求やお世話欲求を含めて、生物としての本能をいろいろ満たしてくれます。私達がヒトに進化するよりも遥か昔、アメーバやゾウリムシだった頃からの本能であるわけですから当然だとは思いますが、私達の存在は、様々な仕組みが「親」になるためにできているわけです。経済や教育なんていうのは、せいぜいここ数百年から数千年にできた習慣です。そんな、昨日今日の流行に左右されて子供を作らないなんていうのは、本末転倒も甚だしいことです。人が何割ぐらい理性的で、また、本能的かというのは議論の分かれるところですが、根本的には本能に従ったほうが人生の幸福度が上がるのだと思います。

人工的には作れない

そして「親になる」というのは案外大変なことで、子供というのは、現時点で人類が作れる物の中で最も複雑なものです。ぶっちぎりで製造困難な代物です。つまり「親になる」ということは、生物的にも文化的にも技術的にも、絶対的強度を持った不可逆的なステータス変更だということになります。昨今では、性別というのはどうやら2つではないということが認知されつつありますが、親と子の境目というものは、それより遥かに明確なものだと思います。

このことは、もっと広く認識されてしかるべきたと思いますが、人工的に作れないという点を除けは、比較的容易に作ることができ、アメーバの頃から脈々と続く普遍的な慣習となっているため、その価値は低く見られがちです。しかし、現代の人間社会においても、親と子の関係性が、絶対的だということに変わりはありません(絶対服従という意味ではないです。現代の科学を持ってしても親子である事実を変えることができないということです)。

影響を与え合う

さらにもう一つの価値を挙げると、親子というのは「お互いの影響を多大に受ける存在」だということです。これは、遺伝子的にも文化や生活的にもいえることです。「影響」というのは、私達の存在を語る上で欠かせないもので、そもそも人間の幸福とは「他者に与える影響」と密接な関係があります。他者に対して良い(と自分が信じる)影響を与えることは、無上の喜びとなります*2。極端にいうと、石ころ同士がぶつかってもお互いに影響し合うわけで、生物の垣根を超え、物理的な現象に起因する絶対的な価値をもっています。

石ころ同士がぶつかり合い、ぶつけられた石ころが転がりだすことと、誰かが書いたブログを読んで何かを考え始めることを比較しても、大きさに違いはあっても「影響」という意味では同じです。

私達は、太古の昔より脈々と続く影響の集約された結果として生を受け、世界に何らかの影響を与え続けてこの世を去ります。

影響を与えるということは、生きると同じ意味であり、死に向かう私達の在り方を決める指針になります。

子供というのは、色々な要素が複雑に絡み合いつつも「強烈な影響力をお互いに及ぼし合う」という意味で、自分にとっても他に代えがたい価値をもたらしますが、次の世代に続く影響を世界に残すという意味でも、大きな価値を持っています。

まとめると

冒頭にも述べましたが、子供というのは授かりもので、欲しいと思っても必ずしも得られるものではありません。

様々な、価値観や事情や運が絡み合うので、単純に「子供を作れ」ということはできません。

しかし、もし「子供の価値」を実際よりも低く見積もっている事によって、チャンスを逃したり対価を渋っているのであれば、非常にもったいないことですし、後になって取り返しのつかない事になりかねません。

ここでは「子供超かわいい!写真死ぬほど撮っちゃう!?」みたいな親バカを晒すことは、流石に極力避けてきましたが、実際は死ぬほど写真も撮ってますし、ただの親バカです。

そういうところも、子供の持つ魅力だと思いますが「なんだただの親バカか」と解釈されることも事実を低く見積もる原因になりそうだったので、避けていました。

それよりも、なぜ人は「親バカになるのか?」について考えるほうが建設的ですし、真理に近づく事ができると思います。

ビバ!親バカ!

親バカ最高!!

Children in the old Church

*1:それを望んでいるかもしれませんが

*2:親が良かれと思うことが子供にとって良いことなのか?という話題は本題とは外れるので省きます