さて、『DEATH「死」とは何か』の感想シリーズですが、第2章の感想を書いたきり、2カ月ほど放置してしまいました。
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版
- 作者: シェリー・ケーガン,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2018/10/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今回は、第3章の感想を述べたいと思います。
第3章は、当事者意識と孤独感に関する主張を2つ取り上げ、それぞれに対して考察しています。
この章全体を通して、主題にバラバラ感があって、なぜ当事者意識と孤独感についてこの章で扱わなければならないのか?についての説明が無く、唐突に二つの話題がはじまるので、面食らいます。
翻訳の都合で章立てがおかしくなったのか、元々の講義が様々な話題をアトランダム的に進めていくスタイルだったのか不明ですが、ちょっと読みにくいと感じました。
が、そういうメタな感想はひとまず置いといて、主張の内容についてです。
主張1: 「誰もがみな、"自分が死ぬ"ことを本気で信じていない」
本章の冒頭で、このような主張が、展開されます。
そもそも、このような主張が展開されているのか?とか、本気で信じようが信じまいがどうでもよくない?みたいな感想がまず思い浮かびますが、それも無視して内容について考えます。多分。
冒頭の主張がなされる根拠として以下の2点があげられています。
- 「死んでいる自分」を想像できないから
- 「自分の身体がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから
まあ、そうかもしれないし、そうでないかもしれない(やっぱりこの章意味あるのか・・・)。
この二つに関するシェリー先生(筆者)の考えは、両方の主張に対して否定的みたいです(この本には、突然「〇〇に対するシェリー先生の考え」という節が出現して、シェリー先生の考えが述べられますが、「え?それ以外の文章はシェリー先生の考えではないの?じゃあ誰が語り部なの??」と混乱します。いったい何なんでしょうね・・・)。
じゃあ、この主張をしていると想定される人物は誰なのか?と、想像するのが難しいのですが、これは洋の東西をわける文化の違いなのかもしれません。
西洋では、キリスト教の影響が深く根強くあると思われますので、死と信仰は切っても切れない関係にあるのだと思います。そうすると、自分の死を信じることが重大な関心事になるのかもしれません。
この辺の所は、全く詳しくないですし、実感もわかない話なので酷く曖昧な物言いになってしまうことをお許しください。
結局のところ、死というのは、深く文化に根差した話題であり、文化的な背景を共有していない者同士では、なかなか深い議論に至りようがないという話なのかもしれないですね。
自分は、信じようが信じまいが死んじまうんだから、気にしたってしょうがないじゃん。って、思うのですがどうでしょうか?
そういう意味では、自分は自分が死ぬことを100%信じているといえるでしょう。今日明日死ぬ可能性については、信じていないかもしれませんが。
主張2: 「死ぬときは、けっきょく独り」
次の話題は、死ぬときに独りかどうか?という話です。
シェリー先生は、「これは完全に間違っている」という主張のようです。「それどころか検討する価値がるのか怪しいくらいだ」とも言っています。これもどちらでもよいですが、死が独りでなかった場合、いったい何人なんでしょうか?
もちろん、山奥で遭難して凍死する場合など、物理的に一人で死ぬケースは想定しているようですが「誰もが独りで死ぬ」というのは、考えられないとしているようです。
この章の最後まで、シェリー先生はこの主張をとにかく否定します。突然死のケースなど、孤独感を感じる間もなく死ぬこともあるという主張なようです。
ケーススタディで考えるのであれば、誰もが生理的に孤独感を感じて死ぬかというと、「そんなことはない」が結論で良いと思いますが、そもそもこんなことを議論する必要あるんでしょうか?
って、最初からそういう主張でしたね。てへ。
第3章の感想
ということで、どちらの主張とも、議論するに値するか怪しいテーマですが、そもそも死に対する態度は、その人の文化的な背景に大きく影響されるというようなことが、少し見えた気がします。
私たち日本人にとっては、章を割いてまで話題にする必要があるのかわからなくても、欧米人にとっては重大な関心事なのかもしれません(というか自分が特殊なだけな可能性も?)。
ぶっちゃけいうと、この章は本当に面白くないです。なぜこれを前半に持ってきたのかわからない内容です。
次の章は「死はなぜ悪いのか?」テーマなのでもう少し面白いと思います。感想はそのうち書きます。