セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

マーブルワーズ

責任の本質

大きな権限には大きな責任がつきものといいますが、責任っていったいなんでしょう?

一般的には、「責任を取る」というと何らかの償いをすることを指します。償いの方法は果たすべき責任によっていろいろありますが、例えば、内閣総理大臣が何らかの不祥事で辞任するなんてことも日常的に起こります(最近はあまり起こっていませんが)。

企業のトップが、業績の責任を取って辞任することもあるでしょうし、ミスによって降格するとか左遷されるとか、様々な権限と責任の形があると思います。

責任という言葉が世間一般で使われる際には、否定的な響きを伴うことが多いですが、責任が発生するというのは、何らかの形で「決断をした」ことにほかなりません。状況にもよりますが、その決断は、そのタイミングで誰かがしなかればならなかったものです。これに対して「何もしない」という決断もありますが、「何もしない」という決断は、ただ時間を浪費するという意味では、最悪の選択肢であることが多いので、何らかの決断をして、結果が出たというのは、それでけでも評価に値するといえます。

そして、結果に対する責任ですが、本質的には「取りようがない」という性質を秘めています。

社長の決断によって会社が倒産したとしても、本人にはどうやっても責任の取りようがありません。監督の判断ミスで試合に負けたとしても同様です。既に会社はつぶれていますし、野球チームは破れてしまっています。

つまり、そのタイミングでしか行えない決断について、後でいくら責任を追及しても、結果は覆らないということです。時間は流れ、関係した人々の人生は消費されてしまいました。

では、不甲斐ない結果を残した、社長なり、監督なりをどうやって責めましょう?

地獄に落として酷い責め苦を味あわせたい心境かもしれません。さんざんなじってやりたいかもしれません。それを実行に移しても構いませんが、それによって倒産した会社が復活することもありませんし、野球の勝敗が変わったりもしません。余計に自身の人生を浪費するだけでしょう。

それに、これらの人々は、そのような責め苦を味わうような悪行をしたのでしょうか?

さんざん放漫経営を繰り返して会社を傾けたのかもしれませんが、そのタイミングで、ほかに決断することができない決断を行っていたのは確かです。そして、その決断に付き従ったり、結果を期待していた人々がいたことも確かです。

これが稀代の詐欺師であっても、本質的な意味合いは同じです。誰かが、「決断」という強烈な影響力を行使し、それにより世界の形が少しだけ変化したのです。

「決断」は、やってみなければ結果がわからないという意味において、誰がやっても一緒です。また、責任についても、どんな結果になろうとも、決断者が、その責任を負うことはできません。

こんな言い方をすると無責任かもしれませんが、決断に対して、責任を恐れる必要は全くないのです。

だからといって、テキトーな決断をしたり、「何もしない」といった消極的な決断をしろと言っているわけではなく、どんな決断も失敗を恐れず進んでした方が良いということが言いたいのです。そして、選択を行う際は、全力をもって自分が良いと信じる行いを選択してください。

ここで理由は語りませんが、「選択しない」という選択が最悪の選択肢になります。

であれば、進んで決断を行う人が多ければ多いほど、最悪の選択肢が回避され、社会全体の結果が良い方向に進むはずです。

日本人は(外国と比べたわけではないですが)奥手な人が多く、責任を取りたがらない文化があるように思えます。

長らく閉鎖的な島国で進化してきたので、積極的に決断して責任を果たすことよりも、全体の調和を重んじる性向が強く出ているのかもしれませんが、劇的に変化し続ける現代社会において、明確な選択や決断をしないということは、全体の死期を早めることに繋がります。

「俺は会社を興さなかったから、会社を興して倒産させた社長より凄い」なんてことはないのです。それでは「メジャーリーグに行ってないから、メジャーで負けてるマー君より偉い」と言っているのと変わりません。

世界に影響を与え、世界を変えていくのは、常に決断し、行動した人々です。

決断の結果、失敗したって構いません。決断せず、失敗しなかった人々より、後ろにいるということは決して無いのですから。

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