私達は、今を生きています。
ですが、「今」というのはなかなか難しい概念で、時と場合、状況によって様々に変化していきます。
時間というのは、相対性理論の効果が無視できない状況にでもない限り、誰のもとにも平等に訪れ、否応なく過ぎ去っていきます。
実際には同じスピードで流れているのにも関わらず、私達にとって時間の流れは、とても一定とは思えないぐらい大きく伸び縮みして感じるのですが、極度に集中した瞑想の最中にも、大きく変化します。
極端な言い方をすると、瞑想という行為は、とめどもなく続く生まれたての「今」を観察し続ける行為に他なりません。
こうやって文章を書いている現在も、それを読んでいるであろう現在も、いつだって「今」は「今」であり、同時に過去でもあります。
私達が、普段認識している「今」とは過去のことです。禅問答のようになりましたが、「今」を認識することは原理的には不可能です。なぜなら、「今」と認識した瞬間にも時は流れ、すでに過去になっているからです。
「いまのいま」を常に認識し続けることは、大変な困難を伴う大仕事なのです。
世界は猛烈な勢いで変化し続けており、その濁流の中で流されながら生きている私達が、追いかける端から過去になっていく「今」を心でしっかり捉え続けるのはとても難しいことです。
なまくらな神経で捉えるのなら、10秒とか1秒とかいった単位が「今」の認識になるでしょうが、集中力が研ぎ澄まされてくると、100分の1秒とか1000分の1秒といった単位で、新鮮な「今」を観察することになります。
その領域においては、思考を差し挟む余裕はまったくないのです。
思考はすでに過去であり、未来は妄想でしかないからです。
「今」とは、どこにあるのでしょうか?
それは自分の目で確かめるしかありません。
究極の「今」の領域においては、私達自身の存在も意味を持ちません。思考が挟まる余裕もなく、ただただ濁流と化す流れを観察するしかないからです。
「今」の極限を感じ続けることこそが、最終的な到達点です。
それこそがゴールであり、安息の地です。
世界はシンプルなのです。