先日、『DEATH「死」とは何か』を読んだ感想を書いたのですが、「あんま意味ない(意訳)」とだけしか書いていなくて、それでは流石に感想文としての体をなしていないだろうということで、少し詳しく感想を書いていきたいと思います。
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版
- 作者: シェリー・ケーガン,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2018/10/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書の第一講(本書では章のことをこう呼んでいます。大学の講義が元になっているからだと思われます。けど面倒なので以下では章と呼びます)は、この本自体の説明なので飛ばします。
第二章は「死の本質」という章題ですが、内容としては精神と肉体の死についてです。
第二章の内容を象徴して、下記のような図が出てきます。
これは、人間の生存期間を大雑把に分類する図で、胎児や乳幼児など、人格が確立していない時期をAとして、人格が形成され、ヒトとして生活する期間をBと置いています。そして、生物的な死を迎えるとC状態に移行するわけですが、時として肉体的な機能を保ちながらも、人格的には死んでいる状態(脳死など)を経る場合があるため、D状態も定義されています。
肉体的な生存機能をB(Body)機能と呼び、精神・人格的な生存機能をP(Person)機能と呼んでいます。
もちろん、こんな大雑把に分類できるほど、ヒトの状態は単純ではないですから、様々なケースにおける生死の基準について論じることを本章の主題としています。
- 心臓移植と殺人の境界線について
- 昏睡状態と生死
- 冷凍睡眠と生死
だいたいこのようなトピックに関して考察しています。各論としては、なかなかおもしろい話だと思います。
心臓移植というのは、(生物的に)生きている人間の心臓を取り出す必要があるため、必然的に殺人を行うことになります。現代では、脳死を人の死と捉え、心臓など、核心的な臓器の移植提供者としてバラバラにすることを容認している国や地域があります。また、P機能が存続していることを条件とするならば、昏睡状態に陥った人は一時的であるにせよ、脳死との区別がつきません。現在では夢物語ではありますが、冷凍睡眠と呼ばれる技法が確率したとすると、生死の判定はよりデリケートな問題になるといったぐあいです。
人の生死の判定は思ったより単純ではなく、レアであるとはいえ、やや込み入った判断を要するケースがありうるということが理解できるかと思います。
第二章の感想
世界の事象は、カテゴライズすることができません。どんな事象であっても分類しようとすると例外的な事象に出くわします。そのため「分類してレアケースについて議論する」というやり方は、例示を重ねることで理解を助けるという効果は期待できますが、いくら各論を潰していったところで、本質的な解決を得ることはできません。
生死についても同様で、どのような状態を死と判定するかという議論をいくら続けたところで、結論に至ることはないのです。
生命とは、構成要素を代謝する流れそのものです。常に流れ続けているため、個体としての確定した自己というものは存在しません。自己が存在しなければ、生もありませんし死もありません。根本的には、何も存在しないのです。
そのため、固定的な自己の存在や生命の存在、人間の存在、精神の存在、人格の存在を前提とした議論には答えが出ようがありません。これは、本書を読むまでもなく、明らかなことです。
では、人の状態の判定には意味がないのかというと、これも違います。
人の生死の基準というのは、一冊の本で静的に結論づけるような性格のものではありませんが、動的な判断技法を確立していくことには意味があります。つまり、仮の判定基準を作り、改善していく仕組みを作るのです。基準には、期間制限を設けて、定期的に公正な手順で見直していくことで、問題点を改善したり、時代にそぐわなくなった基準を変更することができます。根本的な解決ができなくとも、現実に起こっている問題を解決しようという対症療法時なアプローチです。問題を解決するのではなく、解決方法を考えるという、一段抽象的なレイヤーで議論をすることで、現実に起こっている問題にうまく対処することができます。
物事を抽象的に捉えるというのは、物事の中身について考えるのではなく、物事の構成について考えるということです。抽象的な議論からは、直感に反する答えが導き出されることがよくあります。物事の本質を捉えるということは、直感に逆らうことと同義です。世界をより正確に理解するためには、素直には受け入れがたい結論と親しむことが大切です。
そうすることで、直感や常識に囚われない、心の自由を得ることができるのです。