セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

人格の死、肉体の死 ("DEATH「死」とは何か" 2章感想)

先日、『DEATH「死」とは何か』を読んだ感想を書いたのですが、「あんま意味ない(意訳)」とだけしか書いていなくて、それでは流石に感想文としての体をなしていないだろうということで、少し詳しく感想を書いていきたいと思います。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

本書の第一講(本書では章のことをこう呼んでいます。大学の講義が元になっているからだと思われます。けど面倒なので以下では章と呼びます)は、この本自体の説明なので飛ばします。

第二章は「死の本質」という章題ですが、内容としては精神と肉体の死についてです。

第二章の内容を象徴して、下記のような図が出てきます。

これは、人間の生存期間を大雑把に分類する図で、胎児や乳幼児など、人格が確立していない時期をAとして、人格が形成され、ヒトとして生活する期間をBと置いています。そして、生物的な死を迎えるとC状態に移行するわけですが、時として肉体的な機能を保ちながらも、人格的には死んでいる状態(脳死など)を経る場合があるため、D状態も定義されています。

肉体的な生存機能をB(Body)機能と呼び、精神・人格的な生存機能をP(Person)機能と呼んでいます。

もちろん、こんな大雑把に分類できるほど、ヒトの状態は単純ではないですから、様々なケースにおける生死の基準について論じることを本章の主題としています。

  • 心臓移植と殺人の境界線について
  • 昏睡状態と生死
  • 冷凍睡眠と生死

だいたいこのようなトピックに関して考察しています。各論としては、なかなかおもしろい話だと思います。

心臓移植というのは、(生物的に)生きている人間の心臓を取り出す必要があるため、必然的に殺人を行うことになります。現代では、脳死を人の死と捉え、心臓など、核心的な臓器の移植提供者としてバラバラにすることを容認している国や地域があります。また、P機能が存続していることを条件とするならば、昏睡状態に陥った人は一時的であるにせよ、脳死との区別がつきません。現在では夢物語ではありますが、冷凍睡眠と呼ばれる技法が確率したとすると、生死の判定はよりデリケートな問題になるといったぐあいです。

人の生死の判定は思ったより単純ではなく、レアであるとはいえ、やや込み入った判断を要するケースがありうるということが理解できるかと思います。

第二章の感想

世界の事象は、カテゴライズすることができません。どんな事象であっても分類しようとすると例外的な事象に出くわします。そのため「分類してレアケースについて議論する」というやり方は、例示を重ねることで理解を助けるという効果は期待できますが、いくら各論を潰していったところで、本質的な解決を得ることはできません。

生死についても同様で、どのような状態を死と判定するかという議論をいくら続けたところで、結論に至ることはないのです。

生命とは、構成要素を代謝する流れそのものです。常に流れ続けているため、個体としての確定した自己というものは存在しません。自己が存在しなければ、生もありませんし死もありません。根本的には、何も存在しないのです。

そのため、固定的な自己の存在や生命の存在、人間の存在、精神の存在、人格の存在を前提とした議論には答えが出ようがありません。これは、本書を読むまでもなく、明らかなことです。

では、人の状態の判定には意味がないのかというと、これも違います。

人の生死の基準というのは、一冊の本で静的に結論づけるような性格のものではありませんが、動的な判断技法を確立していくことには意味があります。つまり、仮の判定基準を作り、改善していく仕組みを作るのです。基準には、期間制限を設けて、定期的に公正な手順で見直していくことで、問題点を改善したり、時代にそぐわなくなった基準を変更することができます。根本的な解決ができなくとも、現実に起こっている問題を解決しようという対症療法時なアプローチです。問題を解決するのではなく、解決方法を考えるという、一段抽象的なレイヤーで議論をすることで、現実に起こっている問題にうまく対処することができます。

物事を抽象的に捉えるというのは、物事の中身について考えるのではなく、物事の構成について考えるということです。抽象的な議論からは、直感に反する答えが導き出されることがよくあります。物事の本質を捉えるということは、直感に逆らうことと同義です。世界をより正確に理解するためには、素直には受け入れがたい結論と親しむことが大切です。

そうすることで、直感や常識に囚われない、心の自由を得ることができるのです。

「死」とは何か (読書感想文)

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

『「死」とは何か』を読みました。

私たちには魂がある、何か身体を超越するものがあると信じている。そして魂の存在を前提として、私たちには永遠に生き続ける可能性があると信じている。

言うまでもなく、死は究極の謎であることに変わりはないが、不死はそれでもなお正真正銘の可能性であり、その可能性を私たちは望み、ぜがひでも手に入れたいと思う。というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。それはあまりにも恐ろし過ぎる。

だから私たちは、それについて考えまいとする。身の毛がよだつようなことなので、仮に死について考えたら考えたで、不安と恐怖に呑み込まれる。

また、これが生と死という現実に対して人が示しうる唯一の分別ある反応なのが、火を見るよりも明らかに思えてしまう。

人生は信じがたいほど素晴らしいから、どんな状況に置かれていても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。死なずに済めばどんなに良いか。だから、自殺はけっして理にかなった判断にはなりえない。

P372 より抜粋

本書は、このような素朴な生死観に一石を投じることを目的としています。

ともすれば、禁忌として眼をそむけたくなる、「死」についての本格的な議論というのは、珍しい行いなのかもしれません。素朴な生死観というは、別の言い方をすれば「深く考えていない生死観」です。誰かの言う事を鵜呑みにしたり、なんとなく周りの人が言っていることを総合して、自分の中で都合の良いように、ぼんやりとした定義でまとめて、満足しているということです。本書は、そのような人たちに対する啓蒙書となっています。

本書は、それなりの厚さのある本ですが、「死」に関する様々な話題に対して、想定されるケースや特殊なケースなど、あらゆる角度から検証を加えます。そして、冒頭にあげたような素朴な生死観が本当に妥当なのかについて、現実的な説明を行っていきます。

残虐な生死観の解体ショーともいえる内容になるので、人によっては直視するのが怖いような話が次々と展開されていきます。

感想

たいそうな前置きをしておいてナンですが、自分としては退屈な内容でした。

西洋的な哲学というのは、物事の真理に至ることが無いように思えます。本書も、膨大な量のケーススタディを積み上げており、それに関しては驚嘆に値する内容だと思うのですが、すべてを説明するような本質的な理解に踏み込むことはありません。

結局、価値の比較であるとか、良い人生や悪い人生についての論証は、自分たちの主観によって論じるほかなく、議論の終着駅も各自の中で納得のいくものを選択せざるを得ません。

本書においてもそれは変わらず、さまざまな話題について論じていきますが、いくつかの立場を示し、それぞれの特徴を並べるところまでが筆者の仕事であるかのように、そこから導き出される本質的な議論に踏み込もうとはしません。

ひとつ、興味深い部分を挙げると、P291から仏教の世界観として下記のように書いています。

この世には苦しみがある。病がある。死がある。痛みがある。たしかに、私たちはほしいものもあり、運が良ければ手に入れられる。だが、それから失う。そして苦しみや痛みや惨めさを募らせるばかりだ。それならば全体として、人生は良いものではない。

仏教徒はこの判断に基づき、こうした良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失ったときの痛手が最小限になるようにしようとする。それどころか、仏教徒たちは自己が存在するという幻想から自らを解放しようとする。自分が存在しなければ、何一つ失うことはない。

死ねば自分が消滅するのではないかと心配しているから、死は恐ろしい。だが、もし自己がなければ、消滅するものがない。

流石に賢い。仏教の構造について、その深い部分は置いておいたとしても、正しく理解していると思います。このまま、仏教的な価値観に沿って、生死観を見直していけば、違った答えにたどり着けるかもしれません。しかし、すぐに筆者は「だが、良かれ悪しかれ、私は西洋の生まれだ。私は「創世記」の産物だ。「創世記」では神は世界を眺め、それが良いものであると判断を下す」として一蹴してしまいます。そういう話では無いんだけどな・・・。と思いましたが、それがキリスト教圏の限界なのかもしれません。キリスト教の基盤は信仰であり、信仰というのは主観の賜物です。主観的な物事の判断というのは、どこにも出口がなく、それゆえに心理にたどり着くことはできないのですが、主観を失うということは、信仰を失うことに繋がりますので、デッドロックしている感じです。

というわけで、前編に渡る論考は出口には至らず、同じところをグルグルする感じになります。

主観や思い込みを捨てれば、出口から外に出たり、深く本質的な議論に踏み込んだりできると思うのですが、持って回った言い方や奥歯に物が挟まったような言い回しに終始してしまっているのは残念としか言いようがありませんでした。

まあ、ぶっちゃけ「正義」の話を読んだときと同じで、自分の中で持っている答えがどの程度"正しい"のかについての検証がしたくて読んだだけなので、この結果は予想通りで満足ではありました。

qtamaki.hatenablog.com

自分の正しさを知るために、正しくないとわかっている本を300ページ以上も退屈を我慢して読むというのは、マゾいし、性格が悪いなと思いました。おしまい。

ウ・ジョーティカ 『自由への旅「マインドフルネス瞑想」実践講義』(読書感想文)

自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義

自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義

読みました。

本書はミャンマーのテーラワーダ(上座部)僧侶であり、世界的に著名な瞑想指導者でもあるウ・ジョーティカ師が、1997年にオーストラリアで行った、英語による瞑想解説の連続講義の邦訳したものです

本書の冒頭にはこのようにあります。

世界的に有名な瞑想指導者による、実践的な瞑想解説の本ということで、ワクテカしながら読みました。

ざっくりと感想を言うと、とても素晴らしい本です。固有名詞や専門用語や数字を並べ立てるのではなく(大量に出てきますが)、意味と真理を語っていて、様々な点において、発見や驚き、納得や再認識に満ちていました。

一つの目安ですが、読み終わったあと、このような感じで本が付箋だらけになってしまいました。

f:id:qtamaki:20180628204830j:plain

こんな感じになるのは、技術書では珍しいことではないのですが、(ある意味技術書ですが)仏教の瞑想解説の本でこのようなことになるとは思っても見ませんでした。

写真で見てもらって分かると思いますが、本書は500ページを超すボリュームなので、読むのが結構大変でしたが、興味深い内容に引きずられて最後まで興味深く読むことができました(といっても2ヶ月ぐらいかかったと思いますが)。

仏教や瞑想の本ということで、敬遠される方もおられるかもしれませんが、内容としては、人生や世界の深淵について深い洞察をもって観察する方法を説明してくれる解説書になっていますので、ぜひ読んでみてください。

嬉しいことに、本の形を取る前のテキストがPDFで公開されていますので、どんなことが書かれているのか、すぐに確認できます。

http://myanmarbuddhism.info/2013/01/10/22/

ただ、ボリュームが大きいので本で読んだほうが楽だと思います・・・が、イマドキはiPadで読んだほうが楽!という人もいるかもしれないので、僕が古い人間なのかな?

序盤は基礎知識

序盤は瞑想に関する基礎的な知識とやり方などについて解説されています。心構えや注意点など、ウィパッサナー瞑想をする上で欠かすことのできない事柄について、ウ・ジョーティカ師の語り口調で、やさしく丁寧に語られます。

中盤は13段階の洞察知について

中盤は、一番ボリュームがあるのですが、ウィパッサナー瞑想を進めると順番に訪れる「洞察知」についての解説になります。洞察知とは、文字通り洞察によって得られる知性のことなのですが、これが十三段階に分かれています。その一段一段に関して丁寧な解説が入るため、どうしても長くなります。

特に第一の洞察知から第四の洞察知までは、とても重要な基礎になるとのことで、大量の紙幅が割かれています。読んでも読んでも第一の洞察知が終わらずに「えっ。このペースで13まで続くの!?」と途中で焦りますが、第四を越えるとペースアップするので安心です(?)。

クライマックスはやはり第十三の洞察知でしょうか。仏教で涅槃と呼ばれる究極の領域に入っていく段階です。このことについても詳しく言及があります。

終盤は涅槃の性質など

そしてその後は終盤となりますが、洞察知を越えた先の涅槃についての説明と、リトリート(瞑想合宿?)の準備についての説明が続きます(元々リトリートの準備段階の講義を書き起こしたものなので)。

その他、随所にパーリ語による用語や偈が出てきます。仏教は、非常に深淵でデリケートな概念を扱うため、パーリ語でないと表しづらい言葉があるようです。麻雀小説に牌譜が出てくるようなものですね。^^;

感想など

この本は、基本的にはウィパッサナー瞑想のやり方について解説した技術書なのですが、扱う題材の性質上、仏教やブッダが説く、「世界の構造」や「目的とする心の状態」の解説に大量の文字が費やされます。根底にある真理は非常にシンプルで本質的なものですが、言葉にすることが難しく、根本的に理解するには、瞑想によって自らその領域に足を運ぶしか方法がありません。そして、大量の紙幅を費やしても、おぼろげにしか理解できない領域に、修行者たちはただ座り瞑想する事によって到達していくのですから、凄いことだと思います。

読んでいて面白いと思ったのが、時折、相対性理論や量子力学のような専門的な物理現象による例え話が出てくることです*1。これは、大きな驚きとともに、今まで薄っすらと感じていた「仏教の真理性」についての思いを強く再認識することに繋がりました。

初期仏教を学んでいて強く感じるのが、現代において科学的に語られている世界の構造と、仏教の指し示す世界の構造が非常に近しいということです。

現代物理学の先端となる、相対性理論や量子力学のヘンテコな世界観を持ってしても、仏教の説明と矛盾しないばかりか、仏教を深く理解するためには、これらの知識は必須であるとさえ思えます。

自分の専門領域でいうと、関数型言語(や圏論)にて語られる「モナド」という概念がありますが、この概念と仏教の輪廻の構造が非常に似通っています。仏教とモナドを結びつけるのは、あまりにマニアックなので理解してもらうのは難しいかと思いますが、一応過去に書いたエントリーを貼っておきます。^^;

qtamaki.hatenablog.com

僕たちは、2018年に生きていてるため、科学も発展して世界の構造に対して、かなり詳しい知識を有することができています。

僕が、仏教の概念を理解できているのは、(乏しいですが)量子力学や相対性理論、圏論やモナドという前提知識があったから。と言い切れます。

しかし、これらの知識というのは、たかだか100年の間に発見されたものです。

紀元前600年というはるか過去に、これらの予備知識無しに真理にたどり着いたブッダには、驚きを通り越して神々しいまでの神秘性を感じます。おそらくは、オーパーツと言えるような恐るべき知性の持ち主だったに違いありません。

原始仏典のスッタニパータを読むと、様々な思想家、宗教家とブッダが問答する場面が描かれていますが、当時のインド地方は、様々な思想家、宗教家が入り乱れ侃々諤々の議論を交わす百花繚乱の世界だったのでしょう。

そんな土壌があったからこそ、人の直感に逆らう難解な思想体系を引っさげ、傑出した才能を持つブッダが現れた時に、それを理解し受け入れる人たちが少なからずいたわけで、ブッダたちの一派が一大勢力となるというのは、涅槃の発見に輪をかけて、驚くべきことだと思います。

そしてその時に発見された「涅槃」にたどり着く方法が今も受け継がれ、変わらずそこにあるというのは、驚きと喜びを持って受け入れられるべきものです。

シーラカンスやオウムガイが今も泳いでいるように、完成された思想体系に真理が含まれているからこそ、長い期間の検証に耐え続けたのでしょう。

「生きた化石」でありながら、今なお新鮮で揺るぎない、涅槃の深淵に触れることができる一冊です。素晴らしいことだと思います。

*1:ウ・ジョーティカ師の経歴を調べると、電気工学を学び大学を出ているそうです

親鸞『西方指南抄』に浄土真宗の真価を見る(読書感想文)

親鸞『西方指南抄』現代語訳

親鸞『西方指南抄』現代語訳

親鸞『西方指南抄』を読みました。

我が家のお墓は浄土真宗大谷派です。浄土真宗の開祖は親鸞聖人で、師匠である法然上人の開いた浄土宗の教えを広めるために尽力し、死後弟子たちが浄土真宗として宗派を開いたそうです。

僕の名前には、「範」という字が使われているのですが、父親が言うには、親鸞聖人の修業時代の名前「範宴」からとったそうです。「だいぶ恐れ多いところからとったな」とプレッシャーに感じています。^^;

そんな云われもあって、浄土真宗については、一度調べなければならないと思っており、なんとなく本屋で良さそうな本があったので手にとった次第です。

本書の序文によると、親鸞聖人の最晩年の大著で、元々は全三巻からなるそうです。内容としては、法然上人の問答、法語などを納めた本で、親鸞聖人は相当師匠愛の強いお方だったようです。

内容は残念

読んだ感想ですが、正直にいうと、大きく落胆する結果となりました。

内容としては、大量の専門用語と巨大数でまくしたて、読むもの(聞くもの)の頭をパニックに陥れる文章で、それがひたすら最後まで続きます。

一応全てに目を通しましたが、並び立てる固有名詞や巨大な数字、はるか未来や過去の出来事など、おそらく大乗仏教の世界観なのでしょうが、超常的な事柄を信じろといわれても困惑するばかりです。

また、すべての事柄は「伝聞」を主体としていて、「大変有難い経典に、これこれと書いてある」とか「偉いお坊さんの○○が言うには」など、権威主義によって自らの正当性を主張しているのですが、どんなに偉い人が言ったことでも、それが本質を捉えていないのであれば、意味のないことです。

教義としては、「一向専念」がメインで、「南無阿弥陀仏」の名号を一心に唱えることで浄土へ行くことができるというシンプルなものです。そして、なぜ一向専念で成仏できるのかについて、「これでもか」という情報飽和攻撃を行うわけです。

つまり、「一向専念」というシンプルな逃げ道を準備しておいて、その理由をまくしたてることで「わからなければ一向専念すればよい」と追い込み漁をかけるのが基本戦略で、浄土や極楽、地獄といった存在するやも知れないものに対して、もっともらしい権威をつけ、普通の人には追いきれない量の情報を用意することで、「なんだかわからないけど凄そうだ」とか「偉い人が言うことや偉い経典に書いてあることに間違いは無いだろう」というような、暗示をかけ、説得していきます。

信じることが宗教なのであれば、疑いなく信仰を促す舞台装置というのは、当然必要とされるものなのだと思いますが、何かを信じたいわけではないので、これらの文字の羅列に価値を見出すことはできませんでした。

大乗仏教の良いところ

と、ひとしきりディスり切っておいて言うのもなんですが、本書の中でも「これは」と思える一文がありました。

このように教えの内容が高すぎると、行者はついていけなくなる。たとえば強い弓のようなもので、最高の弓だとしても、少しも引き働かすことができない者は、弱い弓を楽に引いて射る者よりは劣っている。

まさに、浄土真宗の真価とはここにあるように思えます。

「難しいことはいいから、一向専念すればよいのだ」という教えは、仏教の教義としてはこれ以上なく敷居の低いものとなります。

多くの信者を獲得するためには、間口は大きいほうが良く、「一切衆生を救済する」という大願を実現するためにも都合が良くなります。

一方、ブッダの説いた初期仏教では、自身で修行して本質的な知見を体得しなければいけないという実践性が重んじられ、仏教の奥義であるとはいえ、広く信者を獲得するには、難解すぎます。

もし仏教が、ブッダの教えを忠実に守ろうとする一派のみであったならば、今ほどの広がりを見せることもなかったでしょうし、日本に伝来することもなかったのだと思います。

その点において、大乗仏教の果たした役割は大きく、世界へ与えた影響は言うまでもないことです。

更に、大乗仏教には良いところがあります。

「般若心経」です。

般若心経は、大乗仏教にあっても不思議なほどシンプルにストレートに仏教の核心を伝えています。そして仏教を信仰するものであれば、必ず般若心経に当たるようにできています。

般若心経に触れ、その意味するところを突き詰めていけば、無意味な固有名詞の羅列や地獄や浄土といった教義は色を失い、仏教の本質的な哲学が鮮やかに浮かび上がってくるはずです。

これは非常に素晴らしい構造だと思います。

入り口では信仰と権威による、宗教の色を強く示し、多くの信者を獲得する一方、盛大に飾り立てた伽藍の中心には、仏教の核となる真空が、ちゃんと備わっているのです。

この構造を狙って作り上げたのだとすれば、恐ろしいほどの智慧の持ち主だったんだろうと思います。

ということで、この本自体は読む価値があるのか甚だ疑問ではありますが、仏教というのは面白いなというのが感想となります。

「思考は現実化する」がPrime readingでプライム会員読み放題になってる!?!?

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

ぐはっ(死)。

昨年末にKindle版買ってしまった・・・。

まあ、例え現在無料で読めたとしても、それでもお金を払っても惜しくないぐらいの名著です。

どんな本かというと、思考が現実化することについて書かれた本です(そのまんま)。

私達の人生は全て「思考(想像)する→現実化する」のサイクルによって成り立っています。

もちろん、思考しなくても現実化すること(良いこと)や、現実化してしまうこと(悪いこと)もありますが、基本的には自分の人生は自分で切り開くものです。

思考する → 実現する

「夢しか実現しない」

この言葉は、別の人の言葉なのですが、人生においていかなるときも「夢」しか実現しません。

それは、夢に見なかったことが実現しても、「夢がかなった」とは言わないからです。^^;

野球選手になりたかった人が、弁護士になっても夢がかなったとは言いませんが、弁護士になりたかった人が弁護士になれば、「夢がなかった」といいます。

つまり、「夢しか実現しない」のです。

・・・。

完全に詭弁ですが、大切なことです。

夢 → 夢が叶う
夢じゃない → ???

デタラメに走っても目的地には辿り着かない

人生において、目的地があるということは、非常に重要なことです。

ただ漠然と生きているだけでは、目的地には辿り着けません。目的地が無いからです。

これも詭弁のようですが、大切なことです。

今日、西に1km進んだとしても、明日東に1km進んでしまうと元の地点に戻ってしまいます。

今日も明日も西に進めるのは、目的地が西にあるからです。

目的なく彷徨うだけでは、目的地には永遠に辿り着けませんが、目的地があれば、たどり着ける可能性はゼロではなくなります。

目的地なし → 彷徨うだけ
目的地あり → そちらに向かう

より具体的にはっきりとした場所を目指す

目的地が定まれば、そちらへ向かって進む原動力を得るため、目的なく彷徨っているよりも遥かにマシですが、目的地が具体的であればあるほど、集中して取り組むことができるため、たどり着ける可能性が高くなります。

「お金持ちになりたい」とか「幸せになりたい」という目標は、ふわふわとしていて、力を一点に集中できないのです。

例えば、「お金持ちになりたい」を「年収の高い企業に就職して1千万以上の年俸を貰う」に置き換えれば、叶う可能性はぐっと高まります。

更に言えば、「年収 上位 企業」ぐらいでネット検索して、具体的な企業名をターゲットにすれば、叶ったも同然でしょう。

お金がほしい < 高収入な会社に入る

自分が自然と熱意を持てる目標を探す

具体的な目標を決めた時に、そこに自然と熱意が湧くような目標であれば、叶う可能性は更に上がります。

目標を決めた時に、自分の中に熱意が湧いているか確認すると良いでしょう。

先の例で言えば、高収入な企業ランキングを見て、一番興味が持てそうな会社を目標に定めるとかです。

もしくは、この過程でお金以外のターゲットが見つかるかもしれません。

お金というのは、究極の汎用性であり、究極の手段でありますので、「目的」に定めようとするとジレンマが発生しやすいものの一つです。

つまり、「お金が欲しい」の裏には、必ず「目的」が隠されているのです。

順当に考えると「何かが欲しい→お金で買う→お金がほしい」なので、本当の目的は欲しい「何か」だったりします。

「欲しい"何か"は今は見当たらないけど、欲しくなった時に買える状態でいたい」というのも、もちろん欲求の1つですが、その際に欲しいのは「安心」です。

お金を手に入れるためには、少なくないリスクに身を晒すことになりますので、「安心」のために「危険」に身を晒すという大きなジレンマが存在するわけです。

お金がほしいけど、危険には手を出したくないのでお金が手に入らないか、無理して危険に手を出して「安心」が欲しかったはずなのに「心配」ばかりを大量に抱え込んで不幸せになったりします。

ここまで長々と話して申し訳ないのですが、実は、「お金が欲しい」という目標はオススメできません。

隠された「何か」を手に入れるには遠回りな目標ですし、「安心」が欲しい場合はリスクのジレンマに陥ります。

安心が欲しい → そのためにお金がほしい → 危険を犯す → あれ???

具体的に熱意を持って進む

目標は、「汎用性のないもの」が、望ましいです。

「お金」や「高学歴」や「高収入・安定収入」は、「本当に欲しいもの」から目を背けて、選択を先延ばしにする手段に過ぎません。

職業であれば、「野球選手」「インテリアデザイナー」「大工」「プロゲーマー」などの具体的、かつ、自分が好きで熱意を持って取り組めるものが良いです。

その他にも、物や賞や体験など、「これが欲しい!」「これをしたい!」と熱意を持って思えるような目標があれば、とても素晴らしいことです。ただし、お金で買えるものは、「何故今お金で買わないのか?」という自問自答をしたほうが良いでしょう。

「海外旅行」であれば、少しお金を出して休暇を取れば叶います。

それに対する代償を払えない目標は叶わないということを意識する必要があります。

「海外旅行」よりも「フィジー10日間の旅」の方が、より具体的で良い目標です。そして、そのためのお金が足りないのであれば、「節約をする」とか「バイトを掛け持ちする」などの、具体的プランを決めて、「月○万円ずつ貯金」などの目標を立てることで叶います。

「何だ、代償を払わないと叶わないのか」と思うかもしれませんが、目標のない死の海を幽霊船のように彷徨うか、目的地を目指してオールを漕ぐのか、という選択はしなければなりません。

ただボーッと毎日を過ごしていれば、いつか何か素敵な出来事が起こって誰かが私を幸せにしてくれる。というのは「シンデレラコンプレックス」といいますが、そんな「買ってない宝くじが当たるのを夢見る」ような幻想に囚われて流されるままに人生を送るというのももったいない話です。

代償 < 願望

大義は本能

人生の目的地にたどり着くには、代償が必要になります。

どうせ代償を払うのであれば、より大きな満足を得たいものです。

実は、自身の欲求を満たすような目標というのは、叶ったとしても大きな満足が得られません。

特に物欲というのは、手に入れる前には、寝ても覚めても頭から離れないような強烈な焦燥感を感じますが、いざ手に入れてしまうと、案外小さな満足しか得られず物足りなさを覚えます。

この物足りなさを更なる物欲を満たそうとすると、永遠に満たされない餓鬼道に落ちます。

本当に良い目標というのは、利他的な動機を伴うものです。

誰かの為になる商品や、利用者が幸せになるサービスの提供などです。

誰かが喜ぶことによって、大きな満足を得られるというのは、幻想ではなく、本能です。

長い間群れで暮らす中で、育まれた根源的な欲求の一つです。

「誰かのためになりたい」という本能は強烈なもので、歴史を紐解けば、そのために命を掛ける人が、大勢いた事からも明らかです。

僕は、この本能を「野蛮だ」と切り捨てるよりも、乗っかってしまったほうが良いと思います。

目標を「誰かの助けになる」ような事に設定することで、大きな推進力を得ることができるとともに、達成した時の満足感もマシマシになるからです。

そして、社会や人類など、大勢の人々に対する貢献を目標に掲げれば、それは「大義」となり人生を賭した目標になります。

誰かのためになりたい!

より大きな貢献 = 大義

まとめると

ちょこっと「思考は現実化する」の紹介をしようとしただけなんですが、興奮しすぎて随分長くなってしまいました。

しかも、「思考は現実化する」に書いてあることとは、直接関係がありません。^^;

僕なりにエッセンスを抜き出してはいますが、好き勝手に思いをぶちまけただけです。^^;;;;

ということで、内容が知りたい方は今すぐ、Kindleでクリック!無料ですぞ!?(プライム会員の方のみ)

プライム会員なら無料!(大興奮)

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

思考は現実化する_アクション・マニュアルつき

「生物と無生物のあいだ」なんてなかった(読書感想文)

さて、読書感想文です。

なんとなく買ってみたこの本、面白かったです。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

この本は、生物学的な見地から、生命の謎に迫る本で、筆者がポスドクとして世界各地の研究室で生物の秘密を追いかけた経験から、生命の謎についての知見が語られます。

生命の謎といえば、以前にイアン・スチュアートのこの本で、数学的な見地から生命の仕組みについて書かれているのを読みました。

数学で生命の謎を解く

数学で生命の謎を解く

生命の成り立ちには、多くの数学的な裏付けがなされるという事実を様々な事例を取り上げて説明する本で、今回読んだ「生物と無生物のあいだ」と同じく、とても勉強になりました。

「生物と無生物のあいだ」でも同様に、生物の形を決める要素には、根本的な部分に物理的な制約が関係している部分がある点を紹介しており、数学と物理学の差はあれ、私達生命を形作る要素は、遺伝子などの設計図だけではなく、数学的な必然性や、物理学的な必然性が大きな要因になっているのだろうなと感じました。

ただ、本書の要点は、物理的な特性についてではなく、生命の「動的平衡」状態についてです。

動的平衡について

動的平衡というのは、Wikipediaによると「物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態」とあります。

動的平衡 - Wikipedia

これだけでは、よくわからないと思いますが、本書では、「ルドルフ・シェーンハイマー」という科学者の行った実験が紹介されており、それによると、特殊なマーキングを行った餌を食べさせ、そのマーキング物質がネズミの体内にどのように拡散するのかを調べたところ、ネズミが食べた餌は速やかに全身に広がっており、ネズミを構成するタンパク質を置き換えていたそうです。

これが意味することは、生命の代謝というのは、全身をくまなく対象として、逐次新しいアミノ酸によって置き換えが行われているということで、「徐々に置き換えられる」とか「一部だけ置き換えられる」わけではないということです。

生物は、極小で複雑なトコロテンを組み合わせたような構造をしており、新しいトコロテンによって古いトコロテンが次々と押し出されていくという姿をしています。

私達が、「生命」と呼んでいるものは、トコロテンを作る筒の中にたまたま現時点で滞留しているトコロテンを指しています。

これから入ってくるトコロテンも、過去に出ていったトコロテンも「生命」とは呼びませんが、流れの中で一時的にその姿を留めているに過ぎないアミノ酸群との境界線は、思ったよりもずっと曖昧で儚いものなのです。

生物と無生物の境界が曖昧であること

僕がこの本を手に取った直接の動機は、「生物と無生物の境界が曖昧であることを確認するため」です。

Wikipediaの「生物」の項目を見ても一目瞭然ですが、生物と無生物を厳密に区別する境目のようなものは定義できません。

生物 - Wikipedia

一応「自己増殖」などの定義が設けられていますが、ウイルスなどの例外が存在します。また、動的平衡の考え方で言うと、「種類」の曖昧さだけでなく「状態の曖昧さ」も問題になるでしょう。

私達の身体は、絶えず無生物を取り込みながら、それらを身体に取り込み続け、吐き出し続ける「おはじき」を行っています。取り込まれるおはじきは、心臓や脳、骨などの「置き換わりそうもない部品」であっても例外なくその対象として繰り返されています。

早いものは数日、遅くても数年もすると完全に新しく置き換わるタンパク質やアミノ酸たちは、どこからが生命の部品でどこまでで生命としての役割を終えるのでしょうか。こちらも厳密な定義は難しいでしょう。

私達や、私達が「生命」だと信じて疑わない者たちは、実はそこら辺の石ころや肉片と地続きで繋がっているという事になります。繋がりという意味では、非常に細微で直感的に納得することが難しいほどですが、確かに「なめらかに」接合されるということが純然たる事実として横たわっているということです。

このような世界に「魂」のようなものは存在するのでしょうか?

存在するとすれば、私達と他の生きとし生けるもの、そこから曖昧になめらかに接合される、無生物や無機物たち、これらのものを隔て、分別し、魂を付与しているものは、どのような定義を持っているのでしょうか?

私達の知らない事実を知っていて、「なめらかでない」生命と無生物の境目を見極めているのでしょうか?

九十九神のように、無生物であっても分け隔てなく魂が与えられているのでしょうか?

(僕は、面倒くさいので「魂は存在しない」に倒してしまったほうがスッキリすると思いますが)

私達が、そして生命体が、非常に曖昧で不確定な世界に存在しているということは、どうやら間違いなさそうです。

無常な世界は動的平衡によって成り立っている

この本を読んで、一番の収穫は、「生命が動的平衡によって成り立っている」という事実です。

これは言うまでもなく、世界が無常であることを表しています。

そもそも、動的平衡によって成り立っているのは生命ばかりではありません。

打ち寄せる波や、草原を渡る風、海の水が蒸発して山野に降り注ぎ、川となって降っていく様も、全ては動的平衡によって成り立っています。

世界はひとときとして同じ姿をしていることがなく、私達と世界は曖昧でなめらかな境界線によってつながっており、自然や物理現象の連鎖に組み込まれる形で、次々と運ばれてくるアミノ酸によって動的平衡を保っています。

今こうしている間にも、世界は盛大で膨大な「おはじき」を絶え間なく続けているのです。

その濁流に一瞬現れる小さな滞留こそが、私達の正体です。

僕の求めるセカイノカタチは、また一つ確からしさを増したように思えます。

世界というのは、なんとも美しく儚く、冷酷なものですね。

仏教思想のゼロポイントを読んだ(読書感想文)

仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―

仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―

さて、この本は、有り体に言えば、仏教(特に初期仏教)の基本構造について述べてる本で、開教当初の仏教がどのような構造をしているのか、順を追って分かりやすく解説している本です。

今年の2月ぐらいに買って一度読んでいたのですが、感想文を書くためにもう一度読み直してみました。

仏教の基本構造は非常にシンプルで、私たちを苦しめているのは「苦」と呼ばれるもので、それを「滅苦」すれば至上の楽に至るという理屈です。

問題は、この「苦」や「滅苦」の考え方を紐解いていくと、非常に逆説的な教理が顔を出し、分解すればするほど不思議な訳のわからない世界に突入するという点です。

仏教の構造については、僕も分かる範囲で時折このブログに書いていますが、これほど網羅的に体系立てて書かれているというのは驚嘆に値します。それが、この厚さの一冊の本にまとまっているというのは、ちょっとした奇跡かもしれません。

それが故に、内容は非常に濃いです。感想文を書くに当たり要約しようと思ったのですが、本書をこれ以上圧縮することは正確さを欠き、本質を外れることになりそうで無理でした。

最初の章でいきなり日本的な(大乗仏教的な)仏教観はバラバラに破壊され、ゼロからのスタートになります。それからは、めくるめく反直感的な逆説の世界をぐるぐると目を回しながら旅することになります。僕は幾つか初期仏教の本を読んでいましたので(同じ魚川氏の著書も)、ある程度心の準備ができていましたが、初めてだと面食らうかもしれません。それでも、仏教用語については一つ一つ丁寧に説明がなされていきますので、「専門用語でチンプンカンプン」ということにはならないと思います。

仏教思想のゼロポイントとは何なのか?については、第6章で語られますが、それまで順を追って展開された仏教の基本構造とブッダの思想が集約されていき一点に収まります。その手腕は見事としか言いようがなく、今回読み返してみても、本書のクライマックスといえるでしょう。

その後に続く慈悲の章は、それまでの章に引けを取らず難解です。全ての執着を離れたはずの解脱者が慈悲を実践することの解釈について語られますが、仏教について考える時、智慧と慈悲の関係というのは、非常にセンシティブな話題だと思います。何回も読み返しながら進めたため非常に時間がかかりました。

ここまで読み進めると、後は仏教の歴史の話と最後のまとめを残すのみとなります。

どこか別の場所で「本書を読んだ大乗仏教の関係者に怒られた」と書いてあった気がしますが、わかるような気がします。初期仏教の文脈から解釈すると、大乗仏教というのは理解しがたい存在です。逆説の逆を行くので順説となるのですが、逆説からその逆を理解するのは、順説から逆説を理解するよりも更に難しくなります。

僕の感覚では、大乗仏教は仏教の本質的な真理あるところの現世涅槃をスポイルして無限遠の彼方に放り投げてしまっているあたりが、本末転倒という感じがします。とはいえ、ブッダが暗に対象外とした水面下の人たちに対して救済を与えるという意味では大きな意義があったことは間違いありません。本書にも書いてありましたが、大乗仏教のおかげで遥か彼方の日本にも仏教が伝来したことを考えると、私たちは感謝しなければならないのでしょう。

逆に言うと、本来の意味での仏教を理解できる人というのは、数が限られているのかもしれません(お釈迦様もそうおっしゃっていることですし)。

おわりに

ということで、読み返して書いた割には、支離滅裂な内容になりましたが、本書はとても面白い一冊です。そもそも仏教というものが、奥深く面白いものだと感じました。

僕の仏教を巡る冒険も、まだまだ続く!

・・・かもしれません。