セカイノカタチ

世界のカタチを探求するブログ。関数型言語に興味があり、HaskellやScalaを勉強中。最近はカメラの話題も多め

人は自分の死を受け入れられるのか?

僕は、死後の世界は無いと考えています。

人は、死んだらそれきりです。

無から生まれ、無に帰るのです。

神様の威厳

こう言うと、唯物論的で神を信じないように聞こえるかもしれませんが、神は存在すると思っています。

「神は存在するが、あまりに偉大すぎるので、人の生死のような些末事には関与しない」という立場です。

人は、死が無であるということを受け入れることが出来るのでしょうか?

宗教には色々な仕事がありますが、「死」の定義というのも重大な仕事の一つだと思います。

人は死を恐怖し、それを乗り越えるために神を必要とします。

しかし、死は死です。

人の死の救済を行うために、神を世俗的な存在に貶めることは、良いことでしょうか?

神という存在が、万物を定義し、そのすべてを超越した存在であるのであれば、人の存在や生死について、恣意的な介入をするというのは、あまりにスケールの小さな話です。

断言すれば、輪廻転生や、天上界というのは、人のエゴが生み出した妄想です。

人は、死の恐怖のため、死を歪めてきました。

死後の世界へ救済を求め、そのために生きている間の行いを歪めるという、本末転倒なことが起きています。

それで本当に、より良く生きることが出来るのでしょうか?

今一度、死と向かい合い、無限や永遠、無と向かい合う必要があるのではないでしょうか。

死と永遠の間の矛盾

などと、偉そうなことを言っていますが、僕自身、自分の死を受け入れることが出来るかというと、少なくとも現時点では気持ちの整理がついていません。

「人は死ぬ。自分は人である。故に自分も死ぬ」

絵に描いたようにシンプルな三段論法が成り立ちます。

そして、「今日があれば、明日がある。明日があれば、1億日後がある」

人としての経験則から導き出される自然な結論です。

ですが、自分にとっての「1億日後」は存在しない。

決定的な矛盾です。

間違っているのは、自分が死ぬことでしょうか?1億日後が来ることでしょうか?

だんだん混乱してきます。

自分の死を考慮しなければ、1億日後は多分来るでしょう。

では、1兆日後は?1京日後は?1無量大数日後は?

明日に終わりは来るのでしょうか?

人類最後の1人は、どのように死に絶えるのでしょうか?

死というのは、主観的な世界の崩壊を意味します。

しかし、それはその後に続く永遠の世界の入り口でもあるわけです。

宇宙の広さや、光の速度や世界の寿命に対して、我々の命はあまりにも短いのです。

ごれでは、何も知ることが出来ず、考える暇もなく死んでしまいます。

どうやったら、限られた人生の中で、死を受け入れることが出来るのでしょうか?

死後の世界の否定

僕は、死後や輪廻について否定的です。

存在の有無の議論をしなくても、そのことが無限や永遠の問題を解決してくれないからです。

たとえ、人の意識や魂が永遠で、無限に輪廻し続けるとしても、いつかは終わりが来ます。

例えば、地球や太陽系、銀河系が終わってしまったら、魂はどうなるのでしょうか?

別の星系に移動するとして、その星系にも終わりが来ます。

宇宙ができて、たかだか138億年と言われていますが、この先、どのぐらい存在し続けることが出来るのでしょうか?

宇宙は、エントロピー増大の法則にしたがって、熱が発散し、均一で冷たい世界に向かっています。

輪廻を続けるということは、冷えきって生物が存在しきれないような世界においても、何らかの形で存在し続けるということです。

逆襲のシャアの劇中でララアは「意識が永遠に生き続けたら拷問よ。」と言っていますが、そのとおりだと思います。

人は、自分達の慣習に縛られ、たかだか100年単位の世界の中での永遠を求めているだけなのです。

実際に魂が永遠であった場合、消滅するよりも恐ろしい目に合うことでしょう。

そして、その上で結局「消滅」します。

天国モデル

死後の世界が存在したはどうでしょうか?

我々が、意識だけの存在になり、死後はその世界で永遠に生き続ける。

これは、世界の定義に決定的に矛盾があります。

その世界は幸せなんでしょうか?

誰にとって幸せなのでしょうか?

かつての死者も含め、万人にとって幸せであると言うことは、現実世界とは違うルールが敷かれているということです。

なぜならば、現実世界は万人にとって幸せではないからです。

現実世界をコピーしてしまうと、諍いが起き戦争が起き、拷問が起き、殺人が起き、イジメが置きます。

そんな世界で永遠に生きるとしたら、絶望しかありません。

そのため、死後の世界は、現実世界のコピーであってはなりません。

争いと、コミュニケーションは表裏の関係にあります。

誰も争わない世界というのは、主張がないと言うことです。

お互いが、お互いに関心を持たずに孤独に生きる世界。そこでは争いは起こらないでしょう。

もしくは、自分以外の住人が自分にとって都合の良いように調整された、ロボットのようなもので構成された世界かもしれません。

これは、最初は幸せかもしれませんが、いつか違和感に気がつくかもしれません。自分以外が、人と呼べるようなものでは無いということに。

これは、絶望的な孤独ではないでしょうか?

つまり、貴方は主張や感情が完全にスポイルされた廃人のような状態で、永遠を過ごすか、自分以外がロボットである世界で、永遠の孤独を味わうことになります。

いずれにせよ「死後の世界の永遠」というのは、問題を解決してくれません。

問題を先送りにしているだけです。

信じるのは構いませんが、信憑性に足る世界観とはとても思えないです。

死を死として受け入れたモデルの構築

こんなエセ科学モドキがまかり通っているのは、ひとえに「死」への恐怖があるからです。

そのために、人々は盲目になり、思考停止し、神様に救いを求めて逃避するのです。

「少なくとも、百年単位の世界では、自分は安泰だ」と思い込みたいのです。

人類は、もう一度、死と正面から向かい合うべきです。

そして、より良い世界のモデルを再定義し、より良く生きる方法を模索するべきです。

では、どのようなモデルが好ましいかというと・・・。

そこが解れば苦労しないというか。(^^;

ここまで来て、解を用意出来ていない不甲斐ないワタクシをお許し下さい。

ただ、以前Kindleセールで99円で買った「図解ブッダの教え」を読んだ感じだと、初期の仏教(ブッダの直接の教え)が、考え方としては近いと思います。

ブッダは、死後の世界について、何も言わなかったそうです(P.125)。

ただ、現世で功徳を積み、解脱することを目指したということです。

ブッダの仏教は面白そうです。

後世になると、輪廻とか六道とか救済とか言い出して、(僕的には)つまらなくなるので、純粋にブッダの教えだけを抜き出した本があれば読みたいですが、仏教って規模がでかすぎて。(^^;

それはさておき、死の恐怖を乗り越え、自分自身が納得して良い生き方をし、良い死に方が出来るような、世界のモデルの構築をしたいと思っています。

それこそが、僕の求めるセカイノカタチです。

図解 ブッダの教え 歴史がおもしろいシリーズ

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